事件史

水野忠恒事件 「狂気乱心いきなり斬りつけ~二度目の松之大廊下刃傷事件 」

江戸時代の刃傷事件

水野忠恒事件

イメージ画像「松之廊下刃傷事件」

江戸時代の事件としては「忠臣蔵 : 赤穂事件」が最も有名である。その発端となったのが元禄14年(1701年)江戸城内の松之大廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が高家・吉良上野介に斬りかかった松之大廊下刃傷事件である。

その24年後の享保10年(1725年)7月28日、同じ江戸城松之大廊下で二度目の刃傷事件が起きてしまう。

加害者は信濃国松本藩の第6代藩主・水野忠恒(みずのただつね)、被害者は長府藩の世子・毛利師就(もうりもろなり)である。

水野忠恒と毛利師就の間には遺恨はなかったが、水野忠恒が突然斬りつけ毛利師就は鞘刀で応戦し一命を取り留めた。そして水野忠恒は乱心だとされ改易となったが赤穂事件とは異なり切腹は申し渡されず、蟄居(ちっきょ)という軽い処分となった。

実はこの同じ場所で起きた二度目の松之大廊下刃傷事件は前の事件と共通点があり、不思議な運命を感じる事件なのである。
今回は二度目の松之大廊下刃傷事件、江戸城内で4番目の刃傷事件である「水野忠恒事件」について検証してみた。

水野忠恒とは

水野忠恒は、元禄14年(1701年)信濃国松本藩第5代藩主・水野忠周の次男として江戸日本橋浜町邸で生まれた。
忠恒の水野家は神君・家康公の生母・於大の方の実家にあたり、徳川家の外戚家として遇されてきた。

嫡男ではなかったため忠恒は日頃から酒色にふけり、みだりに弓矢を射り鉄砲を撃つなど奇行が度々見られたという。
しかし、享保8年(1723年)兄の水野忠幹が嗣子無く亡くなったため、遺言によって忠恒が第6代の松本藩主に就任することになった。

だが、藩主となった忠恒は相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりで藩政はすべて家臣任せであり、普段からとても気が短く怒りっぽい性格であったという。

毛利師就とは

毛利師就は、長門国長府藩5万石の第6代藩主・毛利匡広の五男として生まれる。

しかし兄たちが次々と早世したため世子となった人物で、この事件があった時はまだ19歳であった。

さらに外様大名の世子であったため、忠恒とはほとんど面識は無かったという。

刃傷事件

享保10年(1725年)忠恒は大垣藩主・戸田氏長の養女を娶り、7月21日に婚儀を行い、7月28日に8代将軍・徳川吉宗に婚儀報告をするために江戸城に登城し報告を済ませた。
この日は諸大名が江戸城に登城する日になっていた。

水野忠恒事件

扇子 イメージ画像

その後、松之大廊下を歩いていた忠恒は、扇子を忘れたことに気付きあわてて取りに戻ろうとした。
そして、たまたま忠恒の扇子の忘れ物に気付いた毛利師就は「ここもとに、そこもとの扇子がござる」と言った。

その瞬間、忠恒は突然脇差を抜いて師就に斬りかかったのである。

師就は鞘刀で応戦し忠恒の脇差を打ち落としたが、右手・左耳・喉などに6寸(約18cm)ほどの傷を負った。
その時、近くにいた美濃大垣新田藩主・戸田氏房によって忠恒は取り押さえられた。

目付の長田元隣によって師就も押しとどめられ、医師の栗崎道有成田宗庵によって師就は傷の治療を受けた。
忠恒は乱心とされて改易となり、師就は正当防衛によりお咎めなしとなった。

斬りつけた理由は、忠恒が言うには「自分は不行跡が多く、家臣に人気がないので水野家が改易され、その所領が師就に与えられるという噂を聞いた」ということだった。
しかしそんな話はなく、狂気乱心としか考えられなかった。
※一説には師就が言った「そこもと」という言い方が気に入らなかったという説もある。

処罰

忠恒は改易となり切腹になると思われたが、徳川宗家の外戚という家系であることから忖度されたのか、川越藩2代藩主・秋元喬房のもとに預けられた後、叔父の水野忠穀の屋敷に移されて蟄居となった。

24年前に刃傷事件を起こした浅野内匠頭は即日切腹だったが、後に赤穂浪士の討ち入り事件が起こったことや、毛利家が幕府に取り成したということも、蟄居という処分で済んだ要因と思われる。

実は忠恒の叔父である水野忠穀は、子のなかった忠恒の養子でもあった。
つまり養父が養子のもとで蟄居したというまるで幕閣が水野家を忖度したような軽い処分となった。

水野家はそのまま存続することになり分家の若年寄・水野忠定の取り成しで、水野忠穀は信濃国佐久郡に7,000石を与えられ旗本に取り立てられ、忠穀の嫡男・忠友の代になると大名に返り咲いている。

忠恒は蟄居先の忠穀の屋敷において39歳で亡くなった。

被害者の師就は、この事件の4年後の享保14年(1729年)、父の死去により第7代の長府藩主となるが、享保20年(1735年)30歳で死去した。

結果的には加害者の忠恒の方が長生きをしたのである。

共通点

1度目の浅野内匠頭が起こした江戸城松之大廊下の刃傷事件は、偶然にも水野忠恒が生まれた年に起こっている。

そして今回の被害者である毛利師就の墓は二つあり、一つ目は長府藩(現在の下関市)の笑山寺、二つ目は江戸高輪の泉岳寺である。
泉岳寺と言えば、最初の松之大廊下刃傷事件の浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られている寺院である。

水野忠恒事件

泉岳寺の赤穂浪士の墓 wiki c Stéfan Le Dû

また、斬りつけた忠恒の妻は戸田氏長の養女だったが、妻の実父である大垣藩の戸田氏定は浅野内匠頭の従兄弟なのである。

今回の忠恒が起こした江戸城松之大廊下の刃傷事件が起きた時、戸田氏定は健在であり、2度の松之大廊下刃傷事件の関係者として関わっているのである。

おわりに

「浅野長矩事件」と「水野忠恒事件」には特に関連性はないが、どちらもその原因に謎があり不思議な偶然(共通点)を持つ事件である。

そして政治には、今も昔も忖度というものが存在するのだと改めて認識させられる事件であった。

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 12月 06日 9:53am

    何ィ~!松之大廊下呪い?

    0
    0
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「江戸の剣聖」と称された剣豪・辻月丹
  2. 徳川家康はなぜ江戸に行ったのか?
  3. 江戸時代の「パパ活」?妾奉公と安囲いの知られざる実態とは
  4. 「放屁論から男色本まで」平賀源内のあまりに破天荒すぎる創作世界と…
  5. 真田幸村と大坂の陣 ~家康に自害を覚悟させた「日本一の兵」
  6. 死ぬ事と見つけたり…じゃない! 武士道バイブル『葉隠』冒頭がこち…
  7. 本多忠勝はどのくらい強かったのか?【戦国最強武将】
  8. 徳川家光・家綱を支えた剛直な忠義者~ 酒井忠勝とは

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

誕生日石&花【12月21日~30日】

他の日はこちらから 誕生日石&花【365日】【12月21日】現実的で活動的。博愛と慈愛に溢れ…

戦国武将はどうやって情報を伝えていたのか? 「書状から忍者まで」

戦国時代、日本各地で戦国武将たちが勢力を争った時代において、情報伝達の手段や諜報・調略活動は極めて重…

【日本史上最期にして最大の内戦】 西南戦争・田原坂、吉次峠の戦い

映画ラストサムライの世界観西南戦争は、明治10年(1877年)の2月19日から9月24日…

「6月16日 和菓子の日」のルーツになった江戸幕府の儀式 「嘉祥」とは?

6月16日は、和菓子の日です。1979年、全国和菓子協会が、明治以降衰退した「嘉祥」…

平安時代の女性の服装について調べてみた

平安時代と言えば、朝廷文化が栄えた華やかな時代である。貴族社会であり、高貴な身分を持…

アーカイブ

PAGE TOP