青木昆陽とは
青木昆陽(あおきこんよう)とは、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の「米以外の穀物の栽培を奨励せよ」という命を受け、享保20年(1735年)に「サツマイモ」の栽培に関する書「蕃薯考(ばんしょこう)」を上申し、見事栽培に成功し幕臣に抜擢された人物である。
青木昆陽は庶民向けに「甘藷之記(かんしょのき)」という書物を刊行し、庶民の間でサツマイモを普及させ「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれた。
当時の人々が飢饉を乗り切ったのは、彼が普及させたサツマイモの影響が大きいとされている。
今回は、庶民を飢饉から救った「甘藷(かんしょ)先生」・青木昆陽の生涯について解説する。
出自
青木昆陽は、元禄11年(1698年)江戸の日本橋小田原町の魚屋・佃屋半右衛門の一人息子として生まれた。
名は「敦書(あつのり)」、字は「厚甫」、通称は「文蔵」、後に「昆陽(こんよう)」と号した、ここでは一般的に知られる「昆陽」と記させていただく。
幼いころから学問が好きだった昆陽は、京都在住の高名な儒学者・伊藤東涯の私塾「古義堂」に入門して儒学を学んだ。
27歳の時に江戸へ戻り私塾を開いたが父と母が相次いで亡くなり、昆陽は合計6年間も喪に服し寺参り以外の外出を一切せず、おかゆなどの粗末なもの以外は口にしなかったという。
江戸町奉行所の与力・加藤枝直と昆陽は懇意で、享保18年(1733年)加藤の推挙によって南町奉行・大岡忠相(大岡越前)に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許されるようになった。
享保の大飢饉
享保16年(1731年)の年末から天候が悪く年が明けても悪天候が続き、梅雨からの長雨が約2か月にも及び冷夏となり、そのためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらした。(享保の大飢饉)
それによって中国・四国・九州地方の西日本各地、とりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。
江戸においても多大な被害が出て、その死者の供養のために隅田川の花火大会が始まったと言われているが、実は享保の大飢饉と隅田川の花火大会とは無関係である。
享保の大飢饉の被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石なのだが、この年の収穫は63万石程度であったという。
いつもの年の3割にも満たなく、餓死者は1万2,000人にも達し、250万人強の人々が飢餓に苦しんだ。
※実は諸藩は餓死者を少なく報告したという説があり、徳川実記によれば餓死者は96万9,600人だと記されている。
享保18年(1733年)の正月には、飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた。
しかし、最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって大三島(現在の愛媛県今治市にある有人島)だけはサツマイモによって餓死者を出すことはなく、なんと余った米を伊予松山藩に献上する余裕があったという。
今回の享保の大飢饉を教訓に将軍・徳川吉宗は、米以外の穀物栽培を奨励した。
サツマイモの普及
サツマイモの起源は、紀元前8,000年~10,000年頃の中米や南米あたりとされ、15世紀にコロンブスにより新大陸からヨーロッパに持ち帰られ、その後フィリピンから中国へ伝わった。
その後、宮古島に伝わり沖縄本島や種子島でも作られるようになった。初代薩摩藩主・島津家久が琉球に出兵した際に薩摩に持ち帰ったという。
その後、ポルトガル人も薩摩に持ち込み、それ以来宮崎や長崎、そして京都など西日本に少しずつ広まり、吉宗が将軍に就任した頃には救荒作物として認識されていた。
そこで昆陽は享保20年(1735年)に「蕃薯考」という書を上申し、小石川薬園(小石川植物園)、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市幕張)、上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県九十九里町)で試作を始めた。
一年ほどで試作に成功させ、4年後には将軍・吉宗から直接褒美を賜っている。
昆陽は庶民のためにサツマイモの栽培方法やレシピなどをまとめた「甘藷之記」という書物を著し、その普及に尽力したことで人々から「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれるようになった。
元文元年(1736年)昆陽は薩摩芋御用掛を拝命し身分が幕臣となる。
昆陽のサツマイモ試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか疑問視する説もあるが、昆陽がこの頃サツマイモを代名詞とする名声を得ていたのは事実である。
サツマイモの試作が行われた幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さま」として祀られている。
一説には昆陽は幕張や九十九里町にはほとんど行ってはいなかった(年に七日)という説もあるが、昆陽が小石川で栽培したやり方を幕張や九十九里町で試したとされている。
また、昆陽の試作以前に関東郡代・伊奈忠逵のもとで甘藷栽培が試みられていたともされる。
いずれにしても昆陽のサツマイモは幕府が命を下して行った本格的な試作であり、昆陽の「甘藷之記」が出版されてサツマイモ栽培の普及を意図・頒布したことは、関東でのサツマイモ普及に画期的なことだったことは間違いないのである。
古文書と蘭学
元文4年(1739年)昆陽は、御書物御用達を拝命しサツマイモ栽培から離れた。
昆陽は寺社奉行となっていた大岡忠相の配下に加わり、徳川家旧領の古文書を調査し、在家の家蔵文書を収集して由緒書を研究した。
昆陽は収集した文書を分類・書写して「諸州子文書」としてまとめた。
その後、昆陽は紅葉山火番を経て評定所儒者となり、元文5年(1740年)には将軍・吉宗から野呂元丈と共に蘭語学習を命じられ、オランダ語の習得に務めることになった。
「和蘭文訳」「和蘭文学略考」などの入門書や辞書を残し、野呂と共に日本の蘭学の先駆者となったのである。
弟子には後に「解体新書」の翻訳で知られる前野良沢がいる。
明和4年(1767年)書物奉行となり、明和6年(1769年)流行性感冒(インフルエンザ)により死去した、享年72であった。
おわりに
青木昆陽はサツマイモの栽培を関東に普及させ、このことが昆陽の死後に起きた「天明の大飢饉」や「天保の大飢饉」で多くの人々の命を救うことになった。
彼は晩年、富士山を望む景勝地の目黒を好み別荘を構えて隠居所とし、生前に自ら「甘藷先生墓」と刻んで欲しいと遺言を残していた。
彼の墓がある目黒不動では縁日に青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が催されている。
きっと当時の大飢饉は我々が想像を絶する凄さだったはす。
しかし、サツマイモは土地が瘦せていても育つとても重要な食べ物で
彼は命令されたにしてもその功績は素晴らしい。