江戸時代

井原西鶴の多彩な才能と生涯 「超負けず嫌いだった」

井原西鶴とは

井原西鶴

井原西鶴像

井原西鶴(いはらさいかく)とは、江戸時代の元禄文化を代表する俳諧師でありながら、作家に転身した人物である。

浮世草子(うきよぞうし)と呼ばれる新ジャンルの「好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)」などの作品を出版し、人形浄瑠璃作者としても活躍した。

松尾芭蕉近松門左衛門とライバル関係にあった元禄文化を代表する文化人である。

井原西鶴は、小・中学校の歴史の授業で習うほどの有名な歴史上の人物でありながら、実はその出生などが曖昧で両親が誰かも分からず、妻子の名前すら不明という謎多き人物でもある。

彼が作った浮世草子という新たな文学のジャンルは、後世の文学に多大な影響を及ぼした。

今回は元禄文化の代表者・井原西鶴の多彩な才能とその生涯について解説する。

出自

井原西鶴は、寛永19年(1642年)頃、和歌山の中津村に生まれ15歳頃から俳諧師を志し、談林派(だんりんは)を代表する俳諧師として名を成したという。

西鶴が生まれた場所は和歌山とも大坂の難波とも言われており、その生い立ちについては元文3年(1738年)に刊行された伊藤梅宇の「見聞談叢」によると、西鶴の本名は「平山藤五」といい、裕福な家に育ったと書かれている。

しかし、この「見聞談叢」は西鶴の死後から45年目に書かれたものであり、本の中には西鶴に関する明らかな誤述も見られるため、「見聞談叢」の内容を疑問視する声も多く、未だに西鶴の生まれや名前などは謎のままである。

ただ、西鶴自身の記述によると俳諧に本格的に取り組んだのは15歳の時で、21歳の時には人の作品を採点して点料を貰う点者として、俳諧師のプロとなっていたという。

俳諧師として

井原西鶴

西山宗因

西鶴が入っていた談林派とは、俳人・西山宗因を師と仰ぐ者たちが自らを「俳諧談林」と呼称したことから始まった。道理の攪乱や発想の意外性を重視する特徴があり、自由で笑いの要素が強く「軽口」や「無心所着」を特色とした俳諧である。

その中でも西鶴は談林派を代表する俳諧師として、一昼夜の間に発句を作る数を競う「矢数俳諧」を創始し、最高で1日に23,500句を作った記録を持つ。
その奇妙な句風から「阿蘭陀流(オランダ流)」と称された。

延宝元年(1673年)春、大坂の生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、それらを後日に「生玉万句」として出版した。
以前の号は「鶴永」であったが、延宝2年(1674年)の正月には号を「西鶴」としたことが確認されている。

また34歳の時に妻を亡くし、剃髪して法体になっている。

それ以後は「二万翁」と自称するほどの大坂を代表する俳諧師として、江戸の松尾芭蕉と並び称されるほどの俳諧師となった。

作家として(浮世草子)

井原西鶴

俳諧師をしていた天和2年(1682年)10月、浮世草子(うきよぞうし)の第一作として「好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)」を出板した。

西鶴が書いた新たなジャンルの浮世草子とは、これまでには無かった風俗や人情の諸相を描いた娯楽性の高い文芸形式である。

鎌倉時代から徐々に広がった「御伽草子」は、室町時代を中心に栄え挿絵入りのものが広がり、庶民が楽しめるものとなっていった。

「御伽草子」は手書きで書き写す「写本」という方法で複製されていたのに対し、江戸時代初期には木版により大量に刷り販売されるようになった「仮名草子」が流行する。

仮名草子は教訓的な物語が多かったが、西鶴が色事などをテーマとした。

当時の町人を主人公とする「好色一代男」を作り上げ、江戸中心であった仮名草子とは異なり、浮世草子は大坂や京都などの上方を中心に広がり、作者もそれまでの知識人から町人へと変化した。

西鶴の出現は日本の文学界に影響を与え、好色物を書く作家が増えていった。
西鶴は好色物に加え、武家物や町人物、雑話物も書き、題材や書き方に新境地を開いて新たな文学の指針を作ったのである。

西鶴に対抗する作者としては近松門左衛門が有名であり、互いに良きライバルとして元禄文化の第一人者となっていった。

代表作とライバル

西鶴の「好色」作品では、他には「諸艶大鑑」、八百屋お七で有名な「好色五人女」や「好色一代女」などがある。
方向転換した後は、町人物の「日本永大蔵」や「世間胸算用」などを書き、武家物としては「武道伝来記」が有名である。

西鶴は非常に負けず嫌いで、目立ちたがり屋な性格であったという。

井原西鶴

近松門左衛門

近世浄瑠璃の始まりとされる「出世景清」を書いた浄瑠璃作家・近松門左衛門をライバル視し、浄瑠璃「」を作り、それから「凱旋八嶋」という作品を書いて対抗したという。

西鶴は俳諧師の頃から有名であったが、時が経つれ松尾芭蕉の評判が西鶴を上回り、芭蕉が「奥の細道」で詠んだ「辛崎の松は花より朧にて」を、西鶴は「まるで連歌だ」と批判したという。

芭蕉は西鶴の批判に対して「点取りに昼夜を尽くし勝負を争い、道を見ないで走り回る者」と、俳諧師として下等級に位置すると評した。

結局、俳諧師としては芭蕉の活躍が目立つようになってしまい、負けず嫌いの西鶴は浮世草子に主戦場を変化させていったという。

その死と再注目

西鶴には息子が2人と娘が1人いたが、息子2人は早くに養子に出してしまった。

延宝3年(1675年)には妻が若くして他界し、西鶴は盲目であった娘を男手一つで育てたが、その娘も元禄5年(1692年)に西鶴よりも先に亡くなってしまう。
西鶴は47歳の時に多くの作品の執筆で過労となり、その頃の手紙には「眼が痛い」と訴えているものがあり、眼精疲労に悩まされていたという。

妻や娘に先立たれ独り身だったせいか晩年は心身共にすり減って脳卒中を患ったようで、西鶴の肖像画には身体の一部に麻痺があった形跡がある。

元禄6年(1693年)8月10日に西鶴は52歳で没した。死因は結核または脳卒中だとされている。

井原西鶴

西鶴の墓(大阪市中央区・誓願寺内)

西鶴の死後、遺稿集として「西鶴置土産」が出版され、それ以降も「西鶴織留」「西鶴俗つれづれ」「西鶴文反古」「「西鶴名残の友」などが出版された。

西鶴は元禄期では有名人で人気のある作家であったが、江戸時代末期になると文学界からは何故か忘れられた存在となっていた。

だが明治以後、作家の淡島寒月が山東京伝の考証本「骨董集」を読んで西鶴に興味を抱き、幸田露伴や尾崎紅葉などに紹介し、西鶴の作品は再評価されるようになった。

自然主義文学が起こる中で、西鶴は再度注目を浴びるようになるのである。

おわりに

井原西鶴は俳諧師として俳諧を詠むスピードを競う「大矢数」で1日23,500句を詠み上げる偉業を達成し、上方の井原西鶴と江戸の松尾芭蕉は当時の俳諧師の2大巨匠となった。

「好色一代男」で浮世草子という新しい文学の世界を作り上げ、浄瑠璃で有名になった近松門左衛門とライバル関係になり、井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門の3人は元禄文化の代表的存在であった。

「好色一代男」は、後に「浮世絵の祖」と呼ばれた菱川師宣の挿絵が入った物が江戸で大評判になり、好色や金銭など人の心を巧みに掴んだ西鶴の作品は、後世の文芸に多大な影響を及ぼすことになるのである。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 4月 09日 10:02am

    まじ、やっば凄い人じゃん、
    さすが草の美堂、
    来週から使えるじゃん。

    1
    0
  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 4月 09日 10:12am

    井原西鶴や近松門左門、名前は聞いたけどどんな人かはしらなかったありがとう

    0
    0
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