岩佐又兵衛とは
慶安3年(1650年)、豪華絢爛にして個性溢れる絵巻で知られた江戸時代初期を代表する絵師・岩佐又兵衛(いわさまたべえ)が亡くなった。
彼はある有名な戦国武将の息子だった。
彼の父は戦国の覇王と呼ばれた織田信長の家臣で、摂津国有岡城主であった荒木村重(あらきむらしげ)である。
荒木村重はあの有名な「軍師・官兵衛」こと黒田官兵衛と仲が良く、下剋上によって摂津の有馬氏を滅ぼし有岡城主となった、ある意味戦国時代を代表する武将である。
しかし、彼は突如主君・信長に対して反旗を翻し、説得に現れた黒田官兵衛を土牢に幽閉した非情な男でもある。
典型的な戦国武将・荒木村重の子であった又兵衛は、なぜ戦や武士とは縁のない絵師になったのだろうか?
今回は「呪怨の絵師」や「奇想の画家」と呼ばれた岩佐又兵衛の生涯について解説する。
出自と父の謀反
岩佐又兵衛は、天正6年(1578年)摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市)の有岡城主・荒木村重(あらきむらしげ)の妾腹の子として生まれる。
「又兵衛(またべえ)」は通称で、諱は「勝以(かつもち)」、異名として「吃の又平(どものまたへい)」とも呼ばれたが、ここでは通称の「又兵衛」と記させていただく。
又兵衛が生まれた天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた父・村重は、居城・有岡城にて突如、主君である信長に対して反旗を翻した。
一度は糾問の使者(明智光秀ら)に説得されて、釈明のために安土城へと向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長公は部下に一度疑いを持てば、いつか滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹に戻った。
秀吉は村重と旧知の仲であった黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣して翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束して土牢に監禁してしまった。
これ以後、村重は有岡城に籠城し、織田軍に対して1年間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったため不利な状況となった。
その後、一旦は織田軍を退けるものの、兵糧も尽き始め、期待していた毛利氏からの援軍も現れずに窮地に陥る。
そこで村重は「兵を出して合戦をしてその間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城を明け渡して助命を請おう」と考えたが、天正7年(1579年)9月2日、なんと単身で有岡城から脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移ってしまう。
同年11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守の荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。
久左衛門らは人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城に移った村重の説得に行ったが、村重はそれを受け入れず、窮した久左衛門らはなんと妻子を見捨てて出奔してしまった。
信長は、村重や久左衛門への見せしめのため人質の処刑を命じ、荒木一族は皆殺しにされていったが、まだ数えで2歳であった又兵衛は乳母に救い出されて石山本願寺に保護された。
父・村重は、嫡男・村次と共に親戚の荒木元清がいる花隈城に移り、池田恒興ら織田軍と戦うも、村重は毛利氏を頼りに亡命し尾道に隠遁した。
その後、村重は本能寺の変の後に堺に戻り、秀吉が天下の覇権を握ってからはなんと大坂で茶人として復帰し、千利休とも親交を持った。
しかし村重は秀吉の出陣中に、秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(あらきどうくん)となり、天正14年(1586年)52歳で亡くなった。
又兵衛は京都で絵を学んだが、荒木一族の悲劇、特に母親の最期は又兵衛の心にある種の屈折した影響を与えていた。
成人した又兵衛は母方の「岩佐」姓を名乗り、こともあろうに一族を虐殺した信長の次男である織田信雄の小姓・御伽衆として、一時期仕えていた。これも屈折した影響の表れなのだろうか。
その後、織田信雄が改易となり、浪人となった又兵衛は「勝以」を名乗り、京都で絵師としての活動を始めた。
絵師となる
又兵衛は、父・村重の家臣であった狩野内膳から絵を学んだとも言われるが、実はよく分かってはいない。
又兵衛の画風は狩野派の枠に留まらず、海北派や土佐派などの流派の絵を吸収し、大和絵から水墨画まで絵巻の特徴をよく押さえた、独自の境地を開くものだった。
通俗的ではないが俗っぽさを失わず、一癖も二癖もある独特の画風であった。
又兵衛の特色は人物表現に最も現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。
相貌は豊かな頬と長い顎を持ち、それは「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)と形容された。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分自身のスタイルとしている。
古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、浮世絵の源流とも言われ「奇想の画家」と呼ばれた。
又兵衛は俵屋宗達と並び、江戸初期を代表する大和絵師だとされている。
代表作
数々の名作を残した又兵衛の作品の中で、最高傑作とされるのが「山中常盤物語絵巻(やまなかときわものがたりえまき)」である。
波乱万丈の義経伝説を描いたものであり、総延長は70mを超え、生気溢れる力強い作風で、凄惨な場面は胸が痛くなるほど鮮烈に描かれている。
京都在住時代には「洛中洛外図屏風」を描いた。この屛風絵は他の洛中洛外図と区別する意味で「舟本木」とも呼ばれる国宝である。
他には川越の「三十六歌仙図額」や、肉筆の「職人尽」などが、又兵の代表作として挙げられる。
又兵衛の源氏絵(源氏物語を描いた絵)も凄いと評判で、「源氏物語野々宮図」は年上の六条御息所との別れの場面だが、又兵衛が描いたのは別れ際ではなく、都の中心から駆け付け、やっとの思いで鳥居の前で会うことができたという場面であった。
又兵衛は標準的な場面を避けてあえて独特の緊張感を生み出し、主人公にクローズアップして新鮮な臨場感を与えることを得意とした。
このような源氏絵を描いたのは、又兵衛だけだと言われている。
その後
大坂の陣の後、又兵衛は福井藩主・松平忠直に招かれて、北の庄(現在の福井県福井市)に移住する。
松平忠昌の代になってもこの地に留まり。20余年を過ごす。
寛永14年(1637年)2代将軍・徳川秀忠の招きで、3代将軍・家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作「初音の調度」を命じられて江戸に移り住む。(大奥で地位があった同族の荒木局の斡旋ともいわれる)
又兵衛は、20年余り江戸で絵師として活躍した後、慶安3年(1650年)73歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。
おわりに
岩佐又兵衛は、2歳の時に父と長兄以外の一族が処刑で亡くなるという、厳しい戦国乱世の中で生き残った。
代表作の「山中常盤物語絵巻」では、常盤御前が盗賊に襲われて、所持品だけでなく身にまとう着物まで奪い取られ「肌を隠す小袖を遺すのが人の情けというもの。さもなくば命を奪いなさい」と叫ぶと、盗賊は常盤御前の胸を刺して殺すという物語が描かれた絵巻である。
おそらく又兵衛は、常盤御前を襲った非情な運命に自分の母親の最期を重ねていたのかもしれない。
この記事へのコメントはありません。