どうする家康

【どうする家康】 織田信長の凱旋道中!徳川家康によるおもてなしがコチラ 「ぶらり富士遊覧」

天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の自害により武田家が滅亡しました。

甲斐国へ乗り込んだ織田信長(演:岡田准一)は論功行賞を実施、武田征伐に勲功のあった徳川家康(演:松本潤)に、武田領の中から駿河一国を与えます。

これで「我らが神の君」は、三河・遠江・駿河の三ヶ国を領する大大名に。名実共に「海道一の弓取り」となりました。

さて、武田の残党を家臣に任せることにして、信長は安土城へ帰ろうとします。すると家康が「帰りの道中は、我らがおもてなし致しましょう」と申し出たのです。

これを聞いた信長は大喜び。果たして家康の接待は成功するのでしょうか。

【4月10日】信長が甲府を出立

織田信長の凱旋道中!徳川家康によるおもてなしがコチラ

信長におもてなしを申し出る家康(イメージ)

四月十日 信長公 東国之儀被仰付甲府ヲ被成御立爰ニ笛吹川とて善光寺より流出る川有橋を懸置かち人渡し申馬共乗こさせられうば口尓至而御陣取  家康公御念被入路次通鉄砲長竹木を皆道ひろひろと作左右尓ひしと無透間警固を被置石を退水をそゝき御陣屋丈夫ニ御普請申ニ付二重三重尓柵を付置其上諸卒之木屋木屋千間尓余御先々御泊御々御屋形之四方ニ作置諸士之間叶朝夕之儀下々悉被申付 信長公奇特と被成御感候いキ

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】信長は武田領の配分を定め終えると、甲府を出立なされた。ここに善光寺から流れる笛吹川に橋を架けて渡り、やがて右左口(うばぐち。甲府市南部)に陣所を構えた。

そこへ家康がやって来て申し出るには

これより安土までのご道中、道路を整備して隙間なく警備し、丈夫な宿所を設けておきましょう。もちろんご家来衆の宿舎も用意させていただきます

とのこと。これを聞いた信長は、実に奇特な心がけだと感じ入ったということである。

【4月11日】いつの間に整備した?家康によるおもてなし道中の始まり

四月十一日 払暁尓うば口より女坂高山被成御上谷合尓 御茶屋御厩結構尓構而一献進上申さるゝかしハ坂是又高山尓て茂りたる事大形ならす左右之大木を伏られ道を作石を退させ山々嶺々無透間御警固を被置かしハ坂之峠尓御茶屋美々敷立置一献進上候也 其日ハもとす尓至て被移御陣もとす尓も 御座所結構ニ輝計ニ相構二重三重尓柵を付させ其上諸士之木屋木屋千間尓余り 御殿之四方尓作置上下之御ま可なひ被仰付御肝煎無是非非次第也

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】さて、右左口を出立した信長ご一行。本栖(山梨県身延町)までの道中は確かに木が伐られて石は退けられ、びっしりと警固の者が配置されていた。

また休憩のつど茶屋が設けられ、一献進上。酒を酌み交わして和気あいあい。本栖に到着するとやはり宣言どおりに立派な宿所が設けられていたのであった。

【4月12日】富士遊覧をぶらり満喫

家康のもてなしにご満悦の信長(イメージ)

四月十二日 もとすを未明尓出させられ寒じたる事冬之最中之如く也富士の根かたかみのか原井手野尓て御小姓衆何れもみたり尓御馬をせめさせられ御くるひなされ富士山御覧候處高山尓雪積而白雲之如く也誠希有之名山也同根かたの人穴御見物爰尓御茶屋立置一献進上申さるゝ大宮之社人社僧罷出道の掃除申付御禮被申上昔 頼朝かりくちの屋形立られしかみ井手之丸山有西之山尓白糸之瀧名所有此表くハしく被成御尋うき島か原ニ而御馬暫めさせられ大宮尓至て被移御座候いキ 今度北條氏政為御手合出勢候て高国寺かちやうめん尓北條馬を立後走之人数を出し中道通駿河路を相働身方地大宮諸伽藍を初とし而もとす迄悉放火候大宮ハ要害可然尓付て社内尓御座所一夜之 為御陣宿鏤金銀それぞれの御普請美々敷被仰付四方ニ諸陣の木屋木屋懸置御馳走不斜爰ニ而

一御脇指作吉光 一御長刀作一文字 一御馬 黒駁 以上 家康卿へ被進何れも御秘蔵之御道具也

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】甲斐国から出る道中、美しく雪の積もった富士山を鑑賞。有名な人穴(ひとあな)や、またかつて源頼朝(みなもとの よりとも)が富士の巻狩りで訪れた宿所なども見学。

他にも白糸の滝を訪れ、浮嶋ヶ原でしばし馳せ馬など楽しんだ。その晩は大宮(静岡県富士宮市)に宿泊。

ここでも大層なもてなしに感激した信長は、家康に吉光(よしみつ)の脇差・一文字(いちもんじ)の長刀、そして黒駁(くろぶち)の駿馬など秘蔵の品々を褒美に与えた。

【4月13日】和歌に詠まれた名所めぐり

四月十三日 大宮を払暁尓立せられ浮島か原より足高山左尓御覧し富士川乗こさせられ神原尓 御茶屋構一献進上候也暫御馬を立られ知人尓吹上之松六本松和歌之宮の子細被成御尋向地者伊豆浦目羅か崎連々被及聞食候高国寺よし■ら三枚橋かちようめん天神川伊豆相模境目ニ在之深沢ノ城何れも尋き可され神原の浜辺を由井と磯部の浪尓袖ぬれて清見か関爰ニ興津の白波や田子の浦浜三保が崎いつれも三ホの松原や羽衣の松久堅の四海納■長閑尓て名所名所尓御心を付られ江尻の南山の打越久能の城被成御尋其日ハ江尻之城尓御泊

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】大宮を出立した信長は富士川を渡った。田子の浦や三保の松原など、古くから和歌に読まれる名所を堪能。その夜は江尻城に宿泊する。

【4月14日】武田信玄も落とせなかった田中城のエピソード

織田信長の凱旋道中!徳川家康によるおもてなしがコチラ

思い出される、信玄との死闘(イメージ)

四月十四日 江尻を夜の間尓立せられ駿河府中町口尓 御茶屋立置一献進上申さるゝ爰ニ而 今川之古跡千本之桜くハしく尋聞食あべ川をこさせられ彼川下左之山手に 武田四郎勝頼此地被拘候取出持舟と云城有又山中路次通まりこの川端尓田城を拵ふせきの城有名尓しおふ宇津の山辺の坂口尓 御屋形を立て一献進上候し也宇津の屋の坂をのホりニこさせられ田中漸程近く藤枝ノ宿入口尓誠卒度したる偽之橋とて名所有かい道より左田中之城より東山之尾崎浜手へ付て花沢之古城有是者昔 尾原肥前守楯籠候し時 武田信玄 此城へ取懸攻損し人余多うたせ失勝利所之城也同山崎尓とう目の虚空蔵まします能く尋きかされ候て其日ハ田中の城に御泊

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】今川の古跡・千本桜を見学し、安倍川を渡る。かつて勝頼と家康が争った持船城(静岡県静岡市)を経て田中城(静岡県藤枝市)に到着。

この田中城はかつて武田信玄(演:阿部寛)も攻略できなかった堅城。信長はその話に興味津々、その日は田中城に宿泊した。

【4月15日】ちょっとお疲れ?名所もリアクションも少なめな印象

四月十五日 田中未明尓出させられ藤枝の宿より瀬戸の川端に 御茶屋立置一献進上申さるゝ瀬戸川こさせられせ戸の染飯とて皆道尓人之知所有島田之町是又音に聞ゆる鍛冶之在所也大井川乗こさせられ川の面尓人余多立渡りかち人聊爾様尓渡し申候し也真木のゝ城右尓見て諏訪之原を下きく川を御通有てのほれハさ夜の中山也 御茶屋結構尓構て一献進上候し也是より尓つ坂こさせられ懸川御泊

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】藤枝宿より瀬戸川を渡り、大井川を越えた。牧野城(諏訪原城。静岡県島田市)を右に見ながら進み、その夜は懸川(静岡県掛川市)に泊まる。

【4月16日】高天神城の死闘を思い出し、難所の天龍川を渡る

高天神城に散った名将・岡部元信の面影(イメージ)

四月十六日 懸川払暁尓立せられみつけ之国府之上鎌田か原みかの坂尓 御屋形立置 一献進上也爰よりまむし塚高天神小山手尓取計御覧し送池田の宿より天龍川へ着せられ爰舟橋懸被置 奉行人 小栗二右衛門 浅井六介 大橋 以上 両三人被申候 抑此天龍者甲州信州大河集而流出たる大河瀧下瀧鳴而川之面寒渺寒渺として誠輙舟橋懸へき所尓非す上古よりの初也国中之人数を以て大綱数百筋引はへて舟敷を寄させられ御馬を為可被渡なれは生便丈夫尓殊ニ結構に懸られたり川之面前後尓堅番を居置奉行人粉骨無申計此橋計之造作共幾何之事候国々遠国迄道を作らせ江川尓ハ舟橋を被仰付路辺尓御警固を被申付御泊御泊之御屋形屋形立被置又路道之辻々に無透間御茶屋御厩夫厩不生便敷結構尓被相構 御膳御進上御用意京都境へ人をのほせられ諸国ニ而珍奇と調御崇敬不斜外諸卒之御間叶是又送数日被仰付千五百間宛之小屋小屋御先御先ニて被立置計 家康卿萬方之御心賦一方ならぬ御苦労無尽期次第也併何れの道尓ても諸人感て奉る事御名誉不申足 信長公感悦不及申大天龍舟橋被成御通小天龍乗こさせられ浜松ニ至而御泊 爰ニ御小姓衆御馬廻悉御暇被下思々本坂越今切越ニ而御先へ帰陣也御弓衆御鉄砲衆計相残御伴也 去年 西尾小左衛門被仰付黄金五十枚尓て御兵粮八千余俵被調置候是ハか様之時節御用ニ可被立為候併此上者不入之旨 御諚候て 家康卿御家臣衆へ支配候て被下各忝之趣御禮ニて候也

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】かつて武田と激しい攻防戦を繰り広げた高天神城(静岡県掛川市)を抜けて天龍川へ。ここはいくつもの川が集まって激しい流れを生み出し、とても橋を架けられる場所ではない。

しかし家康はやってのけた。小栗二右衛門(おぐり じゑもん)・浅井六介(あさい ろくすけ)・大橋(おおはし 某)を奉行に舟橋を架けさせ、信長を悠然と渡らせたのであった。

その夜は浜松で宿泊した信長。どういう訳か小姓たちに「そなたら、先に帰ってよいぞ」と行かせてしまい、弓衆と鉄砲衆のみを護衛に残したという。

(※筆者註:家康と親しく話をするのに、小姓にも聞かせたくない内容でもあったのでしょうか)

【4月17日】浜名湖で家来のトリビアを聞かされる

織田信長の凱旋道中!徳川家康によるおもてなしがコチラ

現代の浜名湖。美しい眺めに、信長は何を思ったのか(イメージ)

四月十七日 浜松払暁に出させられ今切之渡り御座船飾御舟之内ニ而一献進上申さるゝ其外御伴衆舟数余多寄させ前後尓舟奉行被付置無由断こさせらる御舟御上りなされ七八町御出候て右手尓はまなの橋とて卒度したる所なれ共名尓しおふ名所也 家康卿御家来 渡辺弥一郎と申仁こさかしく浜名之橋今切之由来舟かた之子細條々申上尓付て神妙に思食れて黄金被下手前之才覚面目也志ほみ坂ニ御茶屋御厩立置 夫々の御普請候て一献進上候也及晩雨降吉田尓御泊

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】今日は浜名湖を見物。海との接点である浜名橋まで来たとき、家康の家来に渡辺弥一郎(わたなべ やいちろう)という者がおり、こざかしくトリビアを披露し始める。

しかし上機嫌の信長はこれを興味津々で聞き入り、褒美として黄金を与えた。その夜は雨が降り、吉田(愛知県豊橋市)に宿泊。

【4月18日】家康と最後の夜

四月十八日 吉田川乗こさせられ五位ニ而御茶屋美々敷被立置西入口ニ結構ニ橋を懸させ御風呂新敷被立珍物を調一献進上大形ならぬ御馳走也本坂長澤皆道山中尓て惣別石高也今度金棒を持而岩をつき砕かせ石を取退平ラニ被申付爰ニ山中之宝蔵寺御茶屋西尓結構尓構而寺僧喝食老若罷出御禮申さるゝ正田之町より大比良川古させられ岡崎城之腰むつ田川矢はせ川尓ハ是又造作ニテ橋を懸させ可ち人渡し被申御馬共ハ乗こさせられ矢はきの宿を打過て池鯉鮒尓至て御泊 水野宗兵衛 御屋形を立而御馳走候し也

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

【意訳】三河国に入った信長は大比良川を越えて岡崎城を訪ね、その晩は池鯉鮒(愛知県知立市)に泊まる。水野宗兵衛(みずの そうべゑ)の馳走を受けたという。

(家康の御見送りは徳川領内まで。明日はいよいよお別れとあってか、何だか信長が寂しそうな印象を受けます。筆者の個人的感想ですが)

【4月19日~21日】家康とお別れ、アッサリと安土まで

四月十九日 清洲迄御通

四月廿日 岐阜へ被移御座

四月廿一日 濃州岐阜より安土へ御帰陣之處ニ……(以下略)

※『信長公記』巻之十五(天正十年壬午)(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事

※4月19日、4月20日は原文ママ(それぞれ一行のみ)です。

今まであんなにびっしり書いていたのに、織田領に入って家康と別れた途端にこのアッサリ感。

『信長公記』を書いているのは信長ではなく、側近の太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかず)ですが、その筆が主君のテンションに影響を受けていた可能性は十分に考えられます。

大好きな家康と離れ離れになって、寂しい信長は「あーあ、つまんないから早く帰ろ!」と思ったのかも知れません。

でも大丈夫。また来月、安土城に家康を招待しましたからね。

その辺りのエピソードは、また改めて紹介したいと思います。

【信長&家康の「ぶらり富士遊覧」まとめ】

豪華絢爛な安土城も、家康がいないと、ちょっと寂しい。来月はきっと、家康を招待しよう!信長のワクワクする姿が目に浮かぶ(イメージ)

4月10日 信長、甲府⇒右左口(うばぐち。甲府市南部)

4月11日 右左口⇒本栖(山梨県身延町)

4月12日 本栖⇒大宮(静岡県富士宮市)

4月13日 大宮⇒江尻城(静岡県静岡市)

4月14日 江尻城⇒田中城(静岡県藤枝市)

4月15日 田中城⇒懸川(静岡県掛川市)

4月16日 懸川⇒浜松城(静岡県浜松市)

4月17日 浜松城⇒吉田(愛知県豊橋市)

4月18日 吉田⇒岡崎城⇒池鯉鮒(愛知県知立市)

4月19日 池鯉鮒⇒清洲城

4月20日 清洲城⇒岐阜城

4月21日 岐阜城⇒安土城

かくして、信長は11日間の旅を終えて安土城に帰り着いたのでした。

本能寺の変(天正10・1582年6月2日)まで、あと41日(安土に帰着時点。太陰暦ではすべて一ヶ月30日)。間もなく永の別れとなる信長と家康の関係が、どのように描かれるのかが今後の見どころとなるでしょう。

※参考文献:

太田牛一『信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ

 

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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