どうする家康

家康・三大危機の1つ 「三河一向一揆」とは? 【部下や親戚まで敵となる】

徳川家康の三大危機と云えば、

・徳川・織田連合軍が武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」
・本能寺の変後の逃亡劇「伊賀越え」
・西三河全域で起きた浄土真宗本願寺派信徒の抵抗「三河一向一揆」

を指す。

今回は、青年家康を襲った「三河一向一揆」に迫ってみたい。

「三河一向一揆」とは?

「三河一向一揆」とは?

画像:「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」幕末~明治の浮世絵師 月岡芳年作

「三河一向一揆」とは、1563年(永禄6年)から1564年(永禄7年)の半年間、西三河を全土を巻き込んだ一向一揆(浄土真宗本願寺派の信徒が起こした組織的抵抗)である。

本證寺第十代・空誓(くうせい)を中心に信徒達が、三河最大勢力だった松平家康と戦った。

余談だが、空誓は「本願寺中興の祖」と称えられる蓮如上人の曾孫にあたる。
彼は、大人しく寺奥に籠って戦況を訊くだけの人物ではなかった。
妻5人と子27人を持った蓮如上人の血気盛んな体力を受け継いだのか、自ら鎧を着て戦場で鉄棒を振り回している。

一揆が起きた原因は、主に2説ある。

・松平氏の家臣が、本證寺守護使不入権(幕府が定めた荘園や領地は、犯罪者追跡や徴税のためでも守護や役人の立入を禁止できる権利)を侵したという説。
・松平氏の家臣が上宮寺付近に砦を作り、兵糧とする穀物を同寺から奪ったことに端を発したという説。

家康三大危機と云われる訳は?

「三河一向一揆」とは?

画像:本多正重の肖像 『柏木市史 第2巻』個人蔵

なぜ三河一向一揆が、家康を追い詰める程の危機となったのか?

一揆側に加担したのは、浄土真宗本願寺派寺院と三河旧勢力だけではなく、家康が頼みにする家臣団や親戚にさえ、敵となった者達がいたからである。

松平家中の21人の武将が家康に反旗を翻し、本拠地・岡崎城(愛知県岡崎市康生町)へ迫った。
刃向かった主な家臣は、本多正信・正重兄弟、渡辺守綱、蜂屋貞次、鳥居忠広、石川康正達であった。

本多正重は、後に「三方ヶ原の戦い」で最後尾を勤め、武田軍の追撃を食い止める手柄をたてる。
家康が幕府を創る上で尽力したとして、後世に「徳川16神将」と讃えられた渡辺守綱、蜂屋貞次、鳥居忠広らも、一揆側だったのである。
岡崎城で政務を担っていた石川康正は、家康の叔母の息子で、いとこにあたる。

なぜ彼らは主君を裏切り、三河一向一揆側についたのか?

室町幕府末期から戦国時代にかけて、家の存続は父系で相続される仕組みが広まった。
信仰においても、親の信仰が配偶者や子に伝わり、家ぐるみとなるのが一般的だったのである。

この争乱は、味方同志で殺しあう凄惨な戦だったと云える。

一揆はどのように収束したか?

しかし三河一向一揆は、わずか半年で収束することとなる。

理由は3つ挙げられる。

1. 一揆に加担した武将と一揆側の連携がなかった
2. 浄土真宗本願寺派と相容れなかった浄土真宗高田派(三重県津市専修寺を本山とする)の寺が家康の味方になった
3. 1564年(永禄7年)の馬頭原合戦に勝利したことで優位に立ち、家康の伯父・水野信元が和議の仲介にあたった

1に関しては、もし一揆側がバラバラな戦い方ではなく武将たちと連携していたら、家康はかなり窮地に立ったと考えられる。

2に関しては、浄土真宗系統で違う宗派が味方してくれたことにより、一揆側についた武将たちが改宗しやすい環境が整った。

3に関しては、合戦に勝利したことにより優位になった点も大きいが、家康の伯父の仲介が一揆側の信用に値したのだろう。

また、一揆側の戦況が劣勢となったことで、一揆から離脱する者が増えていったことも考えられる。
家康側も元の鞘に収まるよう情報戦略を取ったはずだ。

因みに、忍者と伝えられる初代・服部半蔵は家康の祖父時代から仕え、以降服部家は松平氏に代々仕える家臣となっている。

家康の事後処理とは?

「三河一向一揆」とは?

画像 : 久しぶりに大河の主人公となった徳川家康。

三河一向一揆の事後処理は、三者三様となった。

・帰参を望んだ者達は、許された。
・最後まで抵抗を続けた旧勢力(吉良氏一族など)は追放された。
・本願寺派の寺院には、他派や他宗に改宗を強要し、拒否すれば寺院破壊を申渡した。

帰参を望んだ家臣は一揆の収束前後に許されたが、しばらく時間がかかった者たちもいる。
例えば家康自ら出陣した時「さすがに殿とは戦えぬ」と遁走した蜂屋貞次や、松平伊忠に捕まった夏目吉信がそうだった。

また、帰参せずに逃亡した本多正信(後に老中となる)の例もある。

そして一揆側に立った旧勢力の吉良一族を追放できた事も、家康にとって好都合だった。
いずれ三河国平定の道程で、立ち塞がる敵になる可能性が高かったからである。

家臣達の造反に寛大な態度で臨んだ家康だったが、一揆を主導した本願寺派寺院には厳しく対処し、結果、三河国は同教団の活動禁止が19年間続いた。

しかし、この事件で激しく対立した両者(家康と空誓)は、1583年(天正11年)に和解し、空誓は有力大名となった家康に近づいていく。
後に家康が江戸に国替えされると、空誓は本願寺派寺を移転させた。

晩年の空誓は、尾張国藩主・徳川義直(家康の九男)の助けになってくれと家康から頼まれ、義直のアドバイザー的存在となっている。

 

 

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