江戸時代、日本一華やかな場所と言われた「吉原遊郭」では、大晦日から新年にかけて必ず「狐舞(きつねまい)」という行事が行われていた。
狐舞とは、吉原内に祀られた稲荷神社の神の使いである狐に男たちが扮し、笛や太鼓のお囃子に合わせて踊り歩くものである。
狐は店に上がり込んで若い遊女たちに抱きつこうと追いかけ回した。
なぜ、遊女たちが逃げ回るのかというと「狐に抱きつかれると身籠る」という噂があったからだ。
妊娠すると商売ができなくなるので、遊女たちはお金を包んだおひねりを蒔いて、狐に抱きつかれるのを防いだという。
このように様々な人間模様が見られる江戸時代の年の瀬や大晦日を小説にしたのが、浮世草子(うきよぞうし)というジャンルを確立した作家・井原西鶴(いはらさいかく)である。
その作品の一つである「世間胸算用(せけんむねさんよう)」は、大晦日をテーマにオムニバスで話をまとめたものである。
今回は、井原西鶴の「世間胸算用」を主にして江戸時代の人々、特に井原西鶴が住んだ上方(大坂と京都)を中心に、江戸時代の人々の大晦日の様子を前編と後編にわたって紹介しよう。
井原西鶴とは
井原西鶴は、江戸時代の元禄文化を代表する俳諧師であったが、作家に転身し浮世草子と呼ばれる新ジャンルの「好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)」などの作品を出版、人形浄瑠璃作者としても活躍し、松尾芭蕉や近松門左衛門とライバル関係にあった元禄文化を代表する文化人である。
井原西鶴は小・中学校の歴史の授業で習うほどの有名な歴史上の人物であるが、実はその出生などが曖昧で謎多き人物である。
大坂の裕福の家の子として生まれた西鶴は、当時の上方(大坂)に住んで創作活動を続け「日本永大蔵」や「世間胸算用」という代表作を書き上げた。
世間胸算用
「世間胸算用」は、元禄5年(1692年)に井原西鶴が51歳になった時に刊行された。
多くの章が1年の最後である「大晦日」と関係し、上層から下層までの様々な庶民や商人の大晦日の過ごし方ややり取り、やりくり三段が描かれた大本5巻5冊全20章の短編からなる作品だ。
舞台は大坂と京都を中心とする浮世草子であり、副題は「大晦日は一日千金」である。
今回は「世間胸算用」の20の短編の中から、いつくかご紹介しよう。
「門柱も皆かりの世」
これは「借金取り vs お金を返さない男」の話である。
借金をしてばかりの男がいたが、今まで借金取りが来ても命までは取られることはなかった。
男は「こっちだって無いものは払えない、俺ももう56歳。自分の命が惜しい歳ではないから、どうしても払えと言うなら腹を切ってやる!」と開き直って借金取りに豪語していた。
さらに男は「死出の道連れに」と言って、飼っていたニワトリの首を切り落とした。
借金取りたちは自分たちの身も危ないと、逃げるように帰って行ったという。
だが実はこれはこの男の狂言で、借金取りを追い払うための芝居であった。
しかしそんな猿芝居に引っかからない借金取りもいた。それは材木屋の丁稚だった。
18か19歳の若者の丁稚は男にこう言った。
「さて、お芝居はもう済んだようなので借金を返して下さい」
「私の仕事は借金をなかなか払ってくれない人からお金を返してもらうことで、もう27軒も回収し、残す所はここ1軒だけでございます」
続けて
「もし返すお金が無いと言うのであれば、改築の際に用いた材木はこちらのものなので、それを持ち帰りましょう」
と言って、門柱を打ちはずそうとした。
さすがの男も門柱を持っていかれては困ると、有り金をすべて丁稚に払ったという。
「世間胸算用」には、こうした借金取りと庶民との攻防の駆け引きが幾つも描かれている。
なぜ大晦日?
では、なぜわざわざ大晦日に借金取りがやって来たのか?
江戸時代は物流と貨幣経済が発展した時代であり、その中で特に高級品などは代金を後から払ってもらう「売り掛け」が一般的であった。
その代わり、商品には利子にあたる掛け値が上乗せされていた。
支払いは盆と暮れの二節払いか、12月のみの極月払いが主流だった。
行商人などが売る野菜や魚などは現金払いだったが、呉服屋など店での商売は基本後払いが多く、掛け値という利子をつけて客に請求したのである。
そのため大晦日は一年の総決算日で、商人たちがお金を回収して回ったのである。
逆にお金を返す(払う)側は、大晦日さえ乗りきれば、次の回収日(半年か1年後)まで支払わなくて良いということで、何かと逃げきろうとしたのだ。
しかしなぜか、奈良の借金取りだけは違っていたという。
奈良の借金取りは「お金が無くて払えない」と詫びると「仕方がない」とすぐ帰り、次の集金日まで来ることはなかったという。
世界の借家大将
これは井原西鶴の「日本永大蔵」に書かれた話なのだが、正月の餅に関する大晦日のやり取りである。
京都に「藤市」こと藤屋市兵衛という、ケチで有名な商人がいた。
「正月用の餅を自分の所でつくと人手と道具がもったいない」と、餅屋から毎年一貫目(約3.75kg)幾らと決めて買っていた。
この年も餅屋で働く女が、つきたての熱々の餅を持って藤市の所にやって来た。ところが藤市は知らん振りをしてこれに応えなかった。
餅屋の女が「お受け取り下さいまし」と、何度声を掛けても藤市は聞こえない振りを続けた。
この様子を見かねた藤市の奉公人が、秤で餅を計って目方の分だけ料金を支払って餅屋の女を帰した。
それから一時(およそ2時間後)、藤市は奉公人を呼んで「お前、餅を受け取ったのか?」と言って激怒した。
「温もりの冷めない餅を受け取るなど、お前はこの家に奉公するほどの者ではないな」と叱り飛ばしたのである。
そして餅を計り直させると、なんとさっきより目方が減ってたのだ。
藤市が餅屋を無視し続けていたのは、餅が冷めて水分が抜けて軽くなるまでの時間稼ぎをするためだった。
餅が軽くなれば同じ値段で量が多く買える。
これぞまさに倹約・節約の知恵、上方では節約を「始末」と言って大事な商売理念であった。
「始末をして元手を稼ぐ」
商人は元手がないと商売ができないためで、その元手を自分の知恵や才覚で増やしていくことが重要だという話である。
餅の話
年の瀬に買った・ついた餅を江戸時代の人たちは今で言う鏡餅にしていた。
鏡餅は正月に年神様に食べていただくお供え物である。年神様は正月になると家々にやって来てその家の1年を守り、幸せをもたらすと言われた神様だ。
鏡餅は神の魂が宿るとされた「鏡」に見立てて作られたことから、そう呼ばれるようになった。
実は、鏡餅は子どもたちが楽しみにしている「お年玉」と関係している。
お年玉は元々年神様の魂が宿った鏡餅を砕いて、その欠片を分け与え、それを食べることで年神様から1年分の活力をもらえるという意味があった。
ちなみに「お年玉」としてお餅からお金を渡すことが一般的になったのは、昭和時代の高度成長期頃だとされている。
後編では引き続き、江戸時代の大晦日の興味深いエピソードを紹介する。
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