天狗小僧寅吉とは
江戸時代後期の文化3年(1806年)12月31日、寅の日・寅の刻に生まれたために「寅吉(とらきち)」と名付けられた少年がいた。
父親は江戸で煙草売りをしていた「越中屋」興惣次郎。
そんな一般家庭で生まれ育った寅吉は、7歳の頃から度々姿を消し、しばらくしてから家に戻るという事を繰り返すようになった。
あまりにも頻繁に姿を消してしまうので「一体どこに行って来たのだ?」と周りが問い詰めると、幼い寅吉は「上野で出会った老人に連れられて、常陸国(現在の茨城県)の南台丈という山に行っていた」とか「空を飛んで唐の国(中国)に行っていた」などと真顔で答えるのである。
その後、何年かすると「山中で4年間に渡り老人から占術・医術・武術などあらゆる分野の修行を施された」とはっきり述べた。
世間では「寅吉は天狗にさらわれた」と噂になり、いつしか寅吉は「天狗小僧寅吉」、「仙童寅吉」などとあだ名を付けられるようになった。
実際に寅吉は、失せ物をすぐさま探し当てるなど超能力を発揮して人々を驚かせたという。
今回は、天狗に弟子入りした超能力少年「天狗小僧寅吉」こと仙道寅吉(高山寅吉)について前編と後編にわたって解説する。
天狗学
江戸時代には多数の人たちが「天狗学」とも言うべき研究を行っていた。
江戸時代初期の儒学の大家である林羅山、江戸時代中期には幕政に大きな影響力を持った新井白石、儒学者で思想家の荻生徂徠といった高名な学者たちも含まれている。
中でも、幕末の国学者で神道家・思想家の平田篤胤(ひらたあつたね)は、死後の「霊会」やこの世ではない「異界」などに大きな関心を持った学者である。
文政3年(1820年)の秋、天狗界に出入りができるという「天狗小僧寅吉」が評判になった。
寅吉は天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごして戻って来たという。
寅吉の語る「異界」の様子は驚くべきものであった。
この話は当初、随筆家の山崎美成(やまざきよししげ)が「平児代答」として著し、その後平田篤胤が寅吉の体験談を問答という形で記録し「仙境異聞(せんきょういぶん)」、別名(寅吉物語)として2巻にまとめてあげた。
この「仙境異聞」は書かれた後、長らく平田家の門外不出の書物であり、高弟でも見ることができなかったという。
寅吉と平田篤胤の問答は仙境の様子だけではなく、地震の原因や宇宙のことなどありとあらゆる多岐の分野に渡った。
平田篤胤は、当時の知識人が知りたがった様々な疑問を次々と尋ねたが、これらに即答する寅吉が機知に富んだ少年であったことは確かであった。
天狗さらい
江戸時代、子供が消息を絶つ原因は天狗だとされ、天狗が子供をさらい、数か月から数年の後に元の家へ帰すことは「天狗さらい」、または「天狗隠し」と呼ばれていた。
しかし天狗隠し(神隠し)の犠牲者は邪な性的欲求(男色)の犠牲者とも認識されており、平田篤胤も寅吉に「天狗の世界では男色は行われていなかったか?」と質問したが、寅吉は「他の天狗の山はいざ知らず、自分が修行した山では男色は行われていなかった」と返答している。
実際には天狗さらいの多くは、悪質な修験者や山の民が己の性的欲求を満たすために、人里で少年を拉致していたものが多かったという。
寅吉少年の不思議な能力
寅吉の母によると、寅吉は5~6歳の頃より未来の出来事を言い当てたり、無くなった物のありかを探し当てたりと、不思議な能力を発揮する子供だったという。
今で言う予知能力や千里眼を持った超能力少年ということだったのだろうか。
しかし、その時はまだ天狗さらいにあっていない時期である。
例えば下谷小路に火事があった前日に、家の棟に上がって「広小路に火事がある」と叫んだという。
またある時には、父に向って「明日は怪我をするから用心するように」と言った。
父は信用しなかったが、次の日にその言葉通り大怪我をしてしまったという。
また、寅吉が「今夜は必ず盗人が入る」と言うと、本当に家に盗人が入った。
さらに母によると、寅吉は赤子の頃のことを鮮明に覚えており、それを語り出したこともあったという。
天狗の世界に
文化9年(1811年)寅吉が7歳の時に、上野の東叡山寛永寺の側の五条天神で遊んでいると、50歳ほどの旅姿の老人が小壺から丸薬を取り出して売り始めたという。
日が暮れる頃になると、並べた物や敷物など全てを高さ15~16cm位の小壺に入れ、遂にはその老人自らも小壺に入ろうとした。
老人が片足を踏み入れたように見えたその瞬間に老人の体すべてが入り、小壺も虚空に飛び上がってどこかへ行ってしまったのである。
その様子を見ていた寅吉は奇妙に思い、その後もその場所に行って夕暮れまで見ていた。
そしてある時、その老人に「お前もこの壺に入れ、面白いものを見せてやろう」と言われた。
寅吉は気味が悪くて一度は断ったのだが、老人は「この壺に入って私と一緒に行けば卜占(ぼくせん:占い)のことを教えてやろう」と言った。
元々、卜占のことを知りたかった寅吉は、行ってみたいという気持ちになり、壺の中に入ったような気がした途端、気がつくと常陸国(現在の茨城県)の加波山と吾國山の間にある南台丈という山に立っていた。
子供だった寅吉がびっくりして泣きじゃくると老人は「ならば家に送り帰してやろう。しかし、このことは誰にも語ることなく毎日五条天神の前に来るのだ。私が送り迎えをして卜占を教えてやろう」と言い聞かせるや、寅吉を背負って目を閉じさせ大空に昇ったのである。
ザワザワと鳴るような気がすると、すでに寅吉の家の前であったという。
そして、ここでも「このことは決して人に語ってはならない。語ればお前の身のためにも良くない」と諭して老人は見えなくなった。
寅吉はその戒めを固く守り、父母にもそのことを話さなかったという。
約束通り、翌日の昼過ぎ頃に五条天神の前に行くと老人が来ていた。
寅吉を背負って山に行ったのだが、ここでは何も教えずに色々な山々に連れて行き、種々のことを見覚えさせ、花に折り、鳥を捕まえ、川の魚などを捕って寅吉を慰め、夕暮れになると寅吉を背負って家に送った。
やがて寅吉は岩間山という山に連れて行かれ、まず百日断食の修行を行い、書法や武術の法、また神道に関すること、祈祷やまじないの法、符字の記し方、幣(ぬさ)の切り方、医薬の製法、種々の占法、仙道諸宗の秘事経文、その他様々なことを教えられた。
そして寅吉は「高山白石平馬」という名前を老人からもらったのである。
寅吉は両親を始め、周囲の人にはこのことを語らなかったため、誰も知る人はいなかった。
そのうち黙って家を出ても誰からも尋ねられもせず、10日から100日ほども山にいたこともしばしあった。
どういうわけか両親も家の者たちも、寅吉が久しく家にいないとは思ってなかったという。
このように山に往来したのは、寅吉が7歳の夏から11歳の10月までの5年間だが、12~13歳頃には老人が江戸に現れて呪術を教えるようになったという。
後編では、その後の寅吉について解説する。
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