本因坊秀策とは
約20年近く前に、週刊少年ジャンプで連載された漫画「ヒカルの碁」が大ヒットし、日本中の子供たちの間に囲碁ブームが訪れた。
その作品の中に登場したのが、今回紹介する天才棋士・本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく)である。
漫画「ヒカルの碁」では、平安時代の天才棋士・藤原佐偽(ふじわらのさい)が非業の死を遂げ、江戸時代に本因坊秀策に取り憑いていたとされている。
もちろんそれは創作の話なのだが、それまでの囲碁界の定石には無かった「耳赤の一手」と呼ばれる妙手を打った棋士として有名である。
秀策の創案ではないが「秀策流」と称する布石法を用いて好成績を挙げたことから「秀策のコスミ」と呼ばれ、当時では無敵の棋士となり、後に「棋聖(きせい)」と称された。
今回は、近代「囲碁」の基礎を築いた天才棋士・本因坊秀策の生涯について解説する。
出自と本因坊家
本因坊秀策は、文政12年(1829年)備後国因島(現在の広島県尾道市因島)の桑原輪三とその妻・カメの次男として生まれた。
本姓は「桑原」で、幼名は「虎次郎」、3・4歳の頃には「碁石を与えればすぐに泣き止んだ」と言われるほど囲碁好きな少年であったという。
天保8年(1837年)に出府し第十二世・本因坊丈和(ほんいんぼうじょうわ)に入門、その頃は桑原本家の苗字である「安田」を借りて「安田栄斎(やすだえいさい)」と名乗っていたが、ここでは秀策と記させていただく。
その打ち振りを見た師・本因坊丈和は「是正に百五十年来の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と秀策の碁を絶賛したという。
ちなみに百五十年前は「前聖」や「棋聖」と呼ばれた最強棋士、第四世・本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)が全盛期の頃である。
まず、本因坊・本因坊家について詳しく説明しておく。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国三英傑に仕えた顕本法華宗寂光寺の僧・日海(にっかい)は囲碁の名人であった。
天正6年(1578年)に日海は、信長に「そちはまことの名人なり」と称賛され、なんと本能寺の変の前夜にも信長の前で碁を打っていたという。
その後に日海は「第一世・本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)」と名乗り、天正15年(1587年)には徳川家康が駿府に本因坊算砂を招き、家康の婿・奥平信昌が門下生となった。
翌天正16年(1588年)算砂は豊臣秀吉の前で数名の碁の名人と対局し、見事勝ち抜いて20石10人扶持を与えられた。
慶長8年(1603年)家康が幕府を開くと、算砂は江戸に招かれる。
慶長17年(1612年)算砂を始めとする碁打ち衆・将棋衆8名は幕府から俸禄を受け、50石10人扶持とされた。
それ以来、本因坊家は安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元・四家の一つとなり、囲碁の四家元では筆頭の地位となったのである。
中でも四世・道策、十二世・丈和、十四世・秀策、十七世・秀栄などが有名である。本因坊家の跡継が継承し、その時の門弟の中で一番強い者が本因坊の名を継ぐことが出来た。
昭和16年(1941年)に第1期本因坊戦が開催され、このタイトル戦は現在も毎日新聞社が主催して続いている。
現在は国民栄誉賞を受賞した井山祐太氏が連覇しており、このタイトルを得た者は「本因坊〇〇」という号を名乗る慣例がある。
秀策の伝説 耳赤の一局
秀策は天保10年(1839年)に初段になり、翌天保11年(1840年)に「秀策」と改名し二段に昇段、翌年には三段、翌々年には四段と順調に昇段する。
弘化3年(1846年)で当時一の強さを誇った井上家の十一世・井上幻庵と数度の対局を行う。
この時、幻庵は八段で秀策は四段だったが、一局打ちかけて幻庵は秀策の実力を認めた。
その一局こそ秀策の代名詞ともなった「耳赤の一局」である。
秀策はそれまでの囲碁の定石にはない一手を打った。それまで完全に優位であった幻庵だが、この一手によって流れが変わり、幻庵は「秀策の芸は七段を下らない」と評したという。
この対局を見ていたある医師は「これは秀策の勝ちだ」と言った。
周囲の者たちが「何故?」と尋ねると、その医師は「碁のことはよく判らないが、先ほどの一手が打たれた時に幻庵先生の耳が赤くなった。これは動揺し自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と言ったという。
当時、超一流の打ち手と評判だった幻庵に打ち勝ったことで、師の丈和と秀和は、秀策を次の本因坊の跡目(家元)とするために動き始めた。
家元になれば、幕臣になれるのである。
しかしなんと秀策は、父・輪三が広島藩筆頭家老の備後三原城主・浅野甲斐守の家臣という扱いだったため、甲斐守に対する忠誠心から家元になることを頑なに拒否したのである。
囲碁家家元の筆頭・本因坊家の跡目を拒否することは、まさに前代未聞のことであった。
しかし、師である本因坊秀和との対局で秀策が大幅に勝ち越したことにより、嘉永元年(1848年)秀策は正式に第十四世・本因坊の跡目を継ぎ、同時に六段に昇段した。そして師・丈和の娘である花と結婚をする。
そして翌嘉永2年(1849年)江戸城にて将軍の前で御前対局をする「御城碁」に出仕し、囲碁四家元同士の対局で19戦19勝無敗という大記録を成し遂げたのである。
このことが秀策の「最強棋士・最強伝説」の根拠となっている。
秀策の無敵を支えたのは平明秀麗な碁風と、師・秀和と並ぶ正確な形勢判断であった。
秀策の先番は「秀策流」と呼ばれる布石法が有名で、秀策の先番は堅実無比と称された。御城碁打ちの結果を聞かれた時に「先番でした」(=勝ちを意味する)とだけ答えたという逸話が残っている。
※ただ、これは謙虚な性格の秀策にそぐわないため「先番でしたので何とか勝つことが出来ました」と言った、その前半部分だけが一人歩きしたと言われている。それほど秀策は先番では無類の強さを見せていた。
後世への影響
文久2年(1862年)江戸でコレラが大流行し、本因坊家内でもコレラ患者が続出した。
そんな中、心優しい秀策は秀和が止めるのも聞かずにコレラ患者の看病にあたり、秀策自身もコレラに感染し、そのまま34歳の若さで死去してしまったのである。
だが秀策の献身的な看病によって、本因坊家ではコレラによる犠牲者は秀策以外一人も出なかったという。
江戸時代まで「棋聖」と呼ばれていたのは本因坊道策と本因坊丈和の二人であったが、明治以降から秀策の人気が高まり、丈和に代わって秀策が「棋聖」と呼ばれるようになった。
秀策は名人になったことはなかったが、囲碁関係者の間では秀策を「史上最強の棋士」の候補として挙げる声が多い。
秀策のものとされる棋譜は400局ほど伝えられており、明治33年(1900年)に「敲玉余韵(こうぎょくよいん)」としてまとめられた。
これを学ぶプロ棋士は多く、韓国の1900~2000年代の世界最強棋士と称された「李昌鎬(イ・チャンホ)」も、若い頃から秀策の棋譜を熱心に並べ「私は一生かけても秀策先生には及ばないだろう」と言ったという。
おわりに
本因坊秀策は棋力だけでなく優しい人格者で「棋聖」と称され、本因坊道策の「前聖」、本因坊丈和の「後聖」と並び称され、今日の囲碁界に多大な影響を与えた。
人気漫画「ヒカルの碁」の大ヒットによって子供たちに「囲碁ブーム」が起こり、秀策は今も「囲碁史上最強の人物」として影響を与え続けている。
漫画でも本因坊の先生は別次元の先生でした。こんのタイトルだけは渡さないという意味が分かりました。