江戸の要の場所に位置した日本橋
1590(天正18)年、北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉の命による国替えで江戸に入った徳川家康は、江戸城を中心に大規模な都市建設を開始します。
1603(慶長8)年に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと、その動きは加速され、諸国の大名を総動員して、急ピッチで江戸は「将軍のお膝元」にふさわしい都市の姿に整えられていきました。
急激な都市開発が行われると、その労働に従事する人々への食糧の供給が不可欠となります。大量の物資を運ぶ手段が必要となり、そのため町中に張り巡らされた水路と江戸と地方を繋ぐ街道の整備が行われました。
その両方の要の位置にあったのが、江戸城の外堀と隅田川の河口を繋ぐ水路・日本橋川に架けられた日本橋でした。
日本橋は江戸と地方を結ぶ五街道すべての起点とされ、さらに魚市場として発展する魚河岸・米河岸などが設置されました。
都市建設に必要な木材などさまざまな物資もここに集中し、江戸市中の各所に運ばれていきました。
まさに江戸で一番賑わい、活気あふれる場所であったわけです。
魚河岸とともに江戸一番の繁華街に発展
家康は江戸に入ると摂津から漁民が招き、佃島に移住させます。彼らは幕府の膳所(台所)に魚介類を供するために漁業を営みました。
日本橋の魚河岸は当初、佃島の漁民たちが獲った魚を幕府に納めるために設置されたのです。その後、幕府に上納する残りの鮮魚を舟板の上に並べて一般に販売するようになったのが日本橋の魚市場のはじまりとされます。
そして次第に、佃島以外の遠近の漁民たちが「押送り船」と称する高速の小舟で魚を運び込むようになり、日本橋の魚河岸が形成されていったのです。ちなみにこの小船は、漁荷専用船で、左右に四本ずつの櫓(八丁櫓)がついていて、8人で漕ぐ高速船でした。
冷凍冷蔵技術のなかった江戸時代には、少しでも早く鮮魚を運ぶ必要があったのでこうした足の速い船が使われたのです。
ちなみに江戸時代のはじめにおいては、経済や文化を含めて日本の中心都市は京都でした。その後、経済の中心が大阪に移ります。京都、大阪の人口はそれぞれ40万人。では江戸はというと、8代将軍徳川吉宗の頃には人口100万人を突破しています。
江戸、京都、大阪は江戸時代を通じて最も繁栄した都市で、俗に「三都」と称されますが、なかでも江戸は政治・経済の中心としてまさに群を抜いた巨大都市に発展したのです。
当時の人々の間には、獣肉を食べることを嫌う考えが浸透していましたので、魚介類は江戸市民にとって貴重なタンパク源でした。ですから江戸にとってその需要を満たすために、魚の流通システムの整備は必要不可欠であったのです。
18世紀以降の江戸には、日本橋以外にも5組の魚問屋仲間がありました。しかし、生鮮魚と塩干魚の両方を取り扱ったのは日本橋の魚問屋だけで、江戸時代を通じて常に優越的立場を持つ最大の市場であったのです。
『江戸名所記』という京都で発行された実用的な江戸ガイドブックには、日本橋の混雑ぶりを次のように記しています。
「橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。~(中略)~朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。うかうかしていると、踏み倒され蹴倒され、或いは、帯を切られ刀脇差を失い、また、巾着を切られ、手に持つ物をもぎ取られ、その事を言おうとしても、人込みの中に紛れて跡を見失ってしまう。~(中略)~橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。」
この江戸の名所記は、日本橋ができてからまだ半世紀しか経っていない1662(寛文2)年に出版されていますので、当初から日本橋がどれほど繁盛していたかが想像できるでしょう。
魚河岸から江戸の諸方へ運ばれた魚介類
日本橋川を上ってきた押送船は日本橋河岸に横付けされ、平田船の上で仕分けの後、すぐ問屋の店先に並びます。荷受けをして全体を仕切るのは問屋ですが、実際の販売は問屋の下に位置し板舟と呼ばれる簡便な店舗で商売にあたった仲買が担当しました。
では仲買が販売した魚は江戸の町にどのように流通したのでしょうか。その役目を担ったのが、江戸の食品流通の最末端に位置していた「振売り」と呼ばれる商人たちでした。
彼らの基本的な姿はテレビや映画に出てくる「一心太助」のように、両端に魚を入れた桶を吊るした天秤棒を振りかつぐスタイル。早朝に魚河岸で魚を仕入れた「振売り」たちは、江戸の町を歩きまわり、魚の行商を行ったのです。
この他、料理屋は魚河岸から直接魚介を仕入れていました。そして江戸城で使われる魚は「魚納屋役所」の役人がこれも魚河岸から買い付け、「御用肴」の札を掲げた荷車に積んで、猛スピードで江戸城に向かったのです。
江戸の町には1日に千両のお金が動く場所が3か所あったとされています。
「一日に千両の落ちどころ」と称された場所は、芝居町と吉原、そして日本橋の魚河岸であったのです。
生鮮品流通の拠点として生き続ける日本橋
江戸時代を通じて繁栄した日本橋の魚河岸。しかし、明治維新を迎えると魚河岸に様々な問題が起こります。
江戸が東京になり、日本の首都と定められたためさら人口が増加、魚河岸での取扱量や業者の数が増え、取引が潤滑に行えなくなりました。また、文明開化により、西洋的な概念から前時代的な魚河岸は衛生も問題にされました。
そこで公設の中央卸売市場を望む声が起きてきます。そして1923(大正12)年3月、流通の歴史を塗りかえる「中央卸売市場法」が制定されます。市場は東京市が指導、運営し、衛生的で公正な取引による価格と品質の安定を目指しました。
しかし、その矢先に関東大震災が東京を襲います。この未曽有の災害により東京は壊滅的な被害をこうむり、300年以上の歴史を誇った日本橋魚河岸はその幕を閉じました。
1935(昭和10)年2月、水運と陸運に恵まれた築地に東京都中央卸売市場(築地市場)が開設されました。築地市場は、首都圏の食生活をまかなう生鮮食料品などの流通の一大拠点に発展し、日本最大の魚市場になりました。その規模は、1日平均3,350トンの魚や野菜などが入荷し、およそ21億円が取引されていました。(平成17年実績)
日本橋魚河岸は、江戸から東京へ、日本の食文化を支えつづけてきた築地市場へと発展を遂げました。そして築地から豊洲へ移転した現在も、首都圏の生鮮食料品流通の中核を担う拠点として、その役目を担い続けているのです。
この記事へのコメントはありません。