伊達男とは
「伊達男(だておとこ)」とは、服装や振る舞いがお洒落で、色気や侠気(きょうき)のあるモテ男のことを指す。
伊達男の語源や由来は、戦国大名の伊達政宗からきていると言われている。
豊臣秀吉の惣無事令を無視して領地を拡大し、再三の小田原征伐の参陣に遅参した時に、政宗は白い死装束を着て秀吉の前に現れたというエピソードは有名である。しかし、このエピソードは史料の裏付けはないようだ。
朝鮮出兵(文禄の役)の際に、政宗は兵を率いて上洛した。その時に足軽までもが黒塗りに金で星を描いた具足をつけて、刀の鞘は銀や朱、頭には金のとがり笠、馬上の侍たちは豪華な鎧を身に付け、馬にも豹や虎の毛皮で作った馬鎧を着せていたという。
それを見た京の人たちが驚いて「伊達」という言葉を「格好をつけた」「派手な」という意味で使うようになったという説もある。
いずれにせよ通説では「伊達男」の語源は伊達政宗とされている。政宗本人は実際にカッコ良かったのだろうか。
独眼竜だったのか?
仙台市博物館には、政宗が身に付けていたものが展示されている。
政宗の甲冑は黒漆五枚胴具足で、前立ての三日月も輝いている。
陣羽織は山形文様羽織というもので、海外産の生地を使って当時の最新な南蛮文化のデザインを取り入れていることから、お洒落であったことは間違いない。
政宗の晩年を描いた肖像画も博物館に展示されているが、トレードマークの眼帯は描かれてはいない。
政宗の末裔にその真相を尋ねてみると、政宗が亡くなる際の遺言で「親からいただいた体の一部を失ったのは親不孝である。よって死後の肖像画等には必ず両眼を備えよ」と言ったという。
そのため、片目を失っていたのは事実であるが、肖像画は両眼が描かれることとなった。
ただ、政宗が眼帯を使用していたという史料は存在せず、我々がイメージしている「眼帯をつけた政宗」は、TVや映画の中でのフィクションだという。
イケメンだったのか?
瑞鳳殿資料館には、発掘された政宗の頭蓋骨を実物大で複製した模型が展示されている。
政宗は生前どんな顔だったのだろうか?
それを調べようと2022年、NHKのある番組が政宗の頭蓋骨模型を特別に借り、生前の政宗の顔を復元している。
この復元を依頼したのは、国立科学博物館の坂上和弘先生だ。
坂上氏は模型を見た第一印象で、かなりハンサムだと思ったそうだ。
眼窩(がんか)の端にある目尻の痕跡に注目し「目が切れ長でシャープで、顎はかなりがっしりとしている」とコメントしている。
眼窩の形状も、右と左で高さが違うのが顕著な形で表れていた。
眼窩の高さを計ってみると左目は38,5mm、右目は36,5mmと2mmの差があったのである。
坂上氏は「政宗は成長期の段階で右目が使えず、左目はしっかりと動いていたので、右左差が大きくなった」と推測している。
昭和49年(1974年)の発掘調査でも政宗の顔が復元されているが、現在その技術はかなり進歩しているという。
おわりに
NHKのTV番組で政宗の顔が復顔されたことで、政宗はカッコ良い顔(凛々しい顔)をしていたことが明らかになった。
壮大な野望を持っていた伊達政宗は、内面的にも外見的にも、やはりカッコ良い「伊達男」であったと言えるのではないだろうか。
頭蓋骨の形って欧米人みたいなんだよね。それ見たら相当なハンサムだったんだろうなと思ってた。
ちょっと銀座にいそうなオジサマ系だったのは意外だが女にもてまくってただろうな。