男と男が愛し合う「男色(だんしょく/なんしょく)」。
現代では「ボーイズラブ」などと呼ばれて、ドラマ・映画・漫画などで数々の作品が話題になっています。
実は「男色」の歴史は非常に古く、奈良時代に成立した歴史書「日本書紀」にも二人の男性について「男色を思わせる」記述があるそうです。
その後、男色は奈良・平安時代には僧侶や公家の間、戦国時代には武将と家臣の間で広まり、江戸時代に入ると本格的に庶民の間でも男女の性愛同様、ごく普通に嗜まれるようになりました。
そんな江戸時代のこと。「お江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」こと稀代の天才として大活躍し、現代にもその名を知られるあの平賀源内も、実は筋金入りの「男色家」として知られていたのです。
平賀源内といえば、うなぎ・エレキテルなどで有名ですが、今回は男色家としての一面をご紹介しましょう。
当時、お江戸で流行っていた男色を嗜む天才・平賀源内
平賀源内といえば、江戸時代中頃の人物で、学者・医師・戯作者・浄瑠璃作者・発明家・俳人・画家など、さまざまな顔を持つ天才として知られています。
そのマルチな才能ぶりは長い時を経ても語り継がれ、現代でも「日本のダ・ヴィンチ」「お江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称され、右に出る人はいないと高い評価をされています。
友人・杉田玄白に「妻を娶れ」と言われても聞き流す
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれました。源内は子供時代からその天才ぶりを発揮。
13歳の頃は、薬草の知識「本草学」や儒学を学び長崎へ遊学し、さらに医学・オランダ語・油画など、さまざまな西洋の知識や技術も学びました。
宝暦6年(1756)28歳の頃、源内は脱藩して江戸にやってきました。そして、翌年には、日本初となる薬品の博覧会のような「薬品会」や動植物などの展示会などを催し、江戸中にその名を知られるようになっていきます。
そんな平賀源内は、いつ「男色」を好むようになったのか。子ども時代から同性が好きだったのか、江戸で流行っていた男色に興味を持ち、はまっていったのか……定かではありません。
源内は生涯にわたって妻帯することはなく、親しくしていた杉田玄白などが妻をめとることを勧めても、何食わぬ顔で聞き流していたとか。
文人・狂言師である大田南畝(おおた なんぽ)の随筆『仮名世説』には
「平賀源内は遊女のいる吉原の遊郭には遊びには行かず、当時江戸の三代男色街として知られていた芳町(現在の日本橋人形町あたりか)でよく遊んでいた」
といった記述があります。
源内は、美少年・美青年を好み、特に歌舞伎役者を愛していたといわれています。
地獄の閻魔様が美少年に一目惚れ?!お江戸の大ベストセラー
そんな平賀源内は、宝暦13年(1763)35歳の頃、天竺浪人(てんじくろうにん)のペンネームで『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』『根南志具佐(ねなしぐさ)』という本を相次いで刊行します。
『風流志道軒伝』は当時有名だった「島巡り伝説」をもとに、江戸の講釈師・志道軒が不思議な冒険をするお話で、『根南志具佐』は、地獄の閻魔大王がお江戸の有名なトップアイドル・瀬川菊之丞に一目惚れしてしまうというお話です。
この本は、平賀源内とは「深い仲」であった、歌舞伎役者で女形の萩野八重桐(おぎのやえきり)の溺死事件をもとに書かれたと伝わっています。
その話の中でこんなくだりがあります。以下は意訳です。
江戸の堺町に、瀬川菊之丞という絶世の美少年の女形がいました。
ある修行僧が彼に惚れて色に狂い、悪事を働いた上に捕まり、菊之丞の絵を大事に持ったまま死んで地獄に堕ちました。
僧は、閻魔大王の前に引きずり出され「男と男が交わるなどもってのほか!」と、重い刑を言い渡されそうになりましたが、ひとりの転輪王が
「男色に害がないとはいえないが、女色に比べればたいしたものではない。女色は『甘き蜜』、男色は『淡き水』のようなもの……無味の味は、佳境に入った者しか味わうことができない」
と止めに入り、僧が持っている菊之丞の絵をひと目見たいと閻魔大王に懇願しました。
すると閻魔大王は「俺は見ないぞ、好き勝手にしろ!」と目を隠しました。
そして転輪王がその絵を壁にかけたところ、その美しさに地獄の従者たちがどよめいたのです。皆の歓声が気になった閻魔大王は、こっそり薄目を開けて菊之丞の絵を見てしまいます。
「こんなに美しい姿は菩薩もかなわない!」と一目惚れしてしまった閻魔大王は、高い玉座から転げ落ちました。
美少年に惚れ込んでしまった閻魔大王は「冥府の王位を捨ててシャバに行き、菊之丞と枕をともにする」と血迷い、邪淫の罪を裁く宗帝王に激怒されるのでした。
平賀源内 『根南志具佐』
この話の後も男色と下ネタが登場しますが、平賀源内らしくシャレの効いた奇想天外な内容と語り口でストーリーは続いていきます。
江戸時代に大ベストセラーになっただけある内容といえるでしょう。
男色宿のガイドブックも制作していた
さらに、平賀源内は男色家ならではの『男色細見』という著書も出しています。
当時、男色家たちは「陰間」と呼ばれる若く美しい男娼と愛し合うために「陰間茶屋」なる居酒屋・料理屋などを利用していました。(女性が遊び相手を誘うために利用することも)
『男色細見』は、その陰間茶屋を店ごとに詳しく説明した案内書(ガイドブックのようなもの)だったそうです。
そのほかにも「乱菊穴捜(らんぎくあなさがし)」という、絶世の美少年が登場する男色冒険小説なども書いています。
今でいうマルチクリエーターであった平賀源内の自由奔放な作品は、その内容や軽妙洒脱な表現などで数多くの人々を魅了し、「戯作(江戸戯作)の開祖」ともいわれていたそうです。
そんな天才・平賀源内ですが、安永8年(1779)ごろ、酔ったうえでの勘違いから人を殺めてしまい、投獄されて獄死したとされています。(※実は生き延びて天寿を全うした、など諸説あり)
親しかった杉田玄白が弔い、墓所に立つ碑文には、玄白が贈った言葉が刻まれています。
嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常
(大意:ああ非常の人、非常を好み非常に生きて、とうとう非常に死んじまった)
あまりにも多才でさまざまな偉業を成し遂げ、人々を魅了する数々の作品を生み出し、破天荒で自由に生きていた平賀源内という人物を表すとともに、そんな友人を見送る切なさや哀しみが伝わってくる言葉だと思います。
参考:
平賀源内記念館HP
男色の日本史 なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか 大阪市立大学『大学教育』
材木座書房 お江戸のベストセラー 根南志具佐
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