江戸時代

針ヶ谷夕雲 ~禅を学び「相抜け」の境地に至った剣豪【生涯52戦無敗】

針ヶ谷夕雲とは

針ヶ谷夕雲

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針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)とは「真新陰流」の開祖・小笠原長治の門人で、伝説の技とされる「八寸の延金」を相伝されて生涯52度の試合で一度も敗れなかったという剣豪である。

剣術の境地「相抜け(あいぬけ)」を悟り、真新陰流と秘術・八寸の延金を捨て去り、自らの流派「無住心剣流(むじゅうしんけんりゅう)」を生み出し、剣術の神髄を極めた男・針ヶ谷夕雲について解説する。

秘術 八寸の延金

針ヶ谷夕雲の出自はハッキリしておらず、上野国針ヶ谷の出身、または武蔵国針ヶ谷の出身という説がある。

幼い時から剣術を志した夕雲は、当時最強剣士の1人と言われた「真新陰流」の開祖・小笠原長治(おがさわらながはる)の門人となった。

夕雲の師・小笠原長治は、剣聖と謳われた上泉信綱の「新陰流」四天王と称された奥山公重から「新陰流」を学び、豊臣秀吉に仕えて小田原征伐大坂の陣に出陣。

豊臣家滅亡後には明に渡り、中国柔術を習得し秘術「八寸の延金」を編み出し、帰国後は自らの流派を「真新陰流」とし、多くの剣客と立ち合い一度も負けなかったという剣豪である。

小笠原長治と立ち会った剣士たちは、秘術「八寸の延金」には剣聖の上泉信綱でさえも敵わないだろうと評し、その強さは評判になったという。

夕雲はこの秘術「八寸の延金」を授けられ、印可を受けたとされている。

身の丈6尺、力は3人力という体格と体力があった夕雲は、若い頃は常に長く重い刃引きをしている刀を持ち、多人数を相手に片っ端から叩き斬るという凄まじい剣豪であった。

刃引きの刀にしていた理由は「刃がついていると大勢を相手に戦う時に刃がこぼれ、引っ掛けたりするので、最初から刃をつけずに叩き殺す方が良い。脇差は切腹のためにいつもよく研いである」と述べており、その豪気な剣で生涯52度の試合で一度も敗れたことはなかったという。

相抜け

針ヶ谷夕雲

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夕雲は40歳頃までは、師の「真新陰流」の刀法を守り仕官することなく剣術に向きあっていたが、本所駒込の龍光寺・虎白和尚のもとで参禅するようになると、ある境地に至り「新陰流と八寸の延金」を捨て去った。

夕雲は

「我より劣った者には勝ち、我より勝った者には負ける、技量が同じならば相打ちとなる。これではラチがあかない。こんなものは畜生剣法と呼ぶべきで、我こそ天下無敵と信じて修業を重ね、最後には師との真実の試合を行い、共に当たらぬことを至極とする。

むしろ高い境地に至った者同志であれば、互いに剣を交える前に相手の力量を感じ取り戦わずして剣を納める」

という境地を悟り、これを「相抜け」と称した。

「相抜け」の境地の前では「真新陰流や八寸の延金」さえも虚構に過ぎないとしたのだ。

夕雲は刀の勝負より心の勝負を説き、虎白和尚は夕雲の剣を混合般若経から取って「無住心剣流」と名付けた。
これによって伝説の秘術「八寸の延金」は失伝してしまうこととなる。

それでも剣術家たちの間で秘術として語られ続けた「八寸の延金」は、後に中西派一刀流・白井亨(しらいとおる)が研究に研究を重ねて自力で会得したとされている。

しかし、白井亨の「八寸の延金」はあくまでも復元技であり、小笠原長治や針ヶ谷夕雲の技を本当に会得していたのかは分からないのだ。

「八寸の延金」は、今ではその正確な読み方すら分からない、幻の技となってしまった。

無住心剣流

夕雲の「無住心剣流」の特徴は「相抜け」「無形」「片手剣法」が挙げられ、他流が極意とする「相打ち」を否定し「相抜け」を極意としている。

「相抜け」は立ち合いの理想を説いたもので、双方が傷を負う他流の「相打ち」とは異なり、互いに空を打たせて無傷の分かれとなることだ。

稽古法としては「片手剣法」を基本にして真っ直ぐ純粋な心持ちで間合いに行き、竹刀を引き上げて自然に感じるところに落とすというものであった。
片手が上手くなれば両手もうまくなるという考え方で、「子供の戯れのように見られることがあっても気にしない」としていた。

夕雲が「無住心剣流」を興した時に、左手が不自由になっていたという説もある。

夕雲の「無住心剣流」は弟子の小田切一雲(おだぎりいちうん)に授けられている。

小田切一雲は28歳で夕雲に師事し、34歳の時に夕雲と3度立ち合って3度とも「相抜け」に達して、師と互角と認められ印可を授与された。

夕雲は大名家などに仕官することはなく、浪人として一生過ごしたとされているが、紀州藩から内証扶持をもらっていたという説もある。
夕雲は、寛文9年(1669年)に60余歳で亡くなった。

小田切一雲は夕雲の思想を更に徹底して、怒りを忘れ私利私欲を離れる柔和・無拍子を哲理とした。

しかしその後、小田切一雲の弟子である天才剣士、真里谷円四郎が、師・一雲に2度立ち会い、2度とも「相抜け」にならずに勝ってしまった。

「無住心剣流」は円四郎に受け継がれたものの、あまりにも強すぎた円四郎の真髄を理解できる者はその後育たず、「無住心剣流」を受け継ぐ者はいなくなってしまったという。

同門の達人

夕雲が小笠原長治の「真新陰流」を学んでいた時に、師に勝った門人・神谷伝心斎(かみやでんしんさい)という男がいた。

神谷伝心斎は、武芸15流に渡って修業を積んだ後に「真新陰流」を学んだ。

針ヶ谷夕雲

宮本武蔵

当時は宮本武蔵の「二刀流」がもてはやされており、伝心斎は独学で「二刀流」を研究して相対した時の対処法を考え「武蔵とて打ち込めないことはない」と豪語していた。

そして師・長治は、その慢心を諌めるために伝心斎と「二刀流」で立ち合った。

伝心斎は二刀の隙を狙って打ち込むが、長治は自分の技でもない二刀を巧みに操って受け止めた。
そして長治は二刀で挟み込んで押さえにかかったが、伝心斎はそれをはねのけ、体制を崩した長治の顔面に打ち込んだ。

秘術「八寸の延金」が使えなかったとは言え、弟子にまんまと返り討ちにされてしまい、周りには微妙な空気が流れた。

長治は素直に伝心斎の技を褒めて賞賛した。伝心斎はそれから慢心することなく「真新陰流」の稽古に没頭し流派を極めた。
やがて、伝心斎は自分の流派を「直心流」と名付けた。

伝心斎は夕雲と同じように、剣の本意を

「従来の勝負とは全て外道乱心の業であり、兵法の根本は仁義礼智の四徳に基づかない限り本物ではない。己を捨て、直心をもって進み、非心邪心を断たなければ自然にゆがむ」

とした。

小笠原長治の高弟二人は、共に剣の道を極めると禅に似た境地に達している。

おわりに

若い頃に豪快な剣術で暴れまくった針ヶ谷夕雲は、40歳を過ぎてまるで禅問答のような「相抜け」という境地に達した。

伝説の秘術「八寸の延金」はそれにより失伝してしまい、「無住心剣流」は子供の戯れのような無垢な心で剣を使うことを求める、ある意味特殊な剣術になってしまった。

超一流ゆえに常人では考えもつかない無我の境地に達してしまい、彼の流派を伝える者は後世に育たず「無住心剣流」は幻の剣術となった。

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