2025年1月5日(日)から始まった、新しいNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』。
主人公は吉原遊廓で生まれ育ち、のちの「お江戸のメディア王」になる蔦屋重三郎こと蔦重(つたじゅう)です。
主人公が有名な戦国武将・将軍・姫君などではなく、「版元」(出版社・発行所)という仕事のドラマは珍しく、歴史ファン以外の人にも注目を集めているようです。
初回放映では、病に冒され亡くなった下層階級の遊女が、着物を剥ぎ取られて裸体のまま寺の境内に打ち捨てられている場面が、SNSでも大反響を呼んでいました。
また、同じ吉原遊郭の遊女でも、高級料亭の仕出し料理に舌鼓を打つ花魁たちもいれば、水のようなおかゆをすするだけで常に飢えている遊女もいる……そんな、「食生活の格差」を通しての遊女の階級差に驚いたという声も。
今回は、そんな上層階級と下層階級の遊女の「食生活の格差」を調べてみました。
遊女のランクが違えば大きな「格差」があった
『べらぼう』のドラマで反響があった、遊女間の「格差」表現。
「買う側」から見れば、花魁道中・ご馳走が並ぶ宴席・美しく着飾った遊女たちが座っている「格子」など華やかに見える吉原ですが、「買われた側」から見れば正反対の世界です。
ほとんどの女性は「身売り」で連れてこられ、借金の返済に縛られ自由意志では辞められません。「廓勤めは苦界10年」といわれるほど、さまざまな女性たちの犠牲の上に成り立っている世界ともいわれています。
さらに、遊女としてのランクが違えば、身を置く場所・待遇・食事などすべて大きく格差がありました。
豪華な仕出料理と水っぽいおかゆ
ドラマ『べらぼう』の中でも何度か登場して印象的だったのは、「百川」の豪華な仕出し料理です。
百川は「通人が遊ぶ料理屋」に数えられる日本橋の高級料亭で、浮世絵「百川繁栄の図」に描かれたり、古典落語の「百川」に登場したりする繁盛店として知られていました。
百川は、多彩な品々で視覚的にも味覚的にも大満足できる、長崎を起源とする和洋折衷の卓袱料理を供する料理屋だったそうです。
ドラマで登場した老舗妓楼「松葉屋」での食事風景でも、百川の仕出料理と思われる華やかな伊達巻・かまぼこ・エビ・黒豆などが盛り付けられた膳が並び、それをおかずに白米を食べている花魁や禿たちの姿がありました。
下層階級の遊女は水のように薄いおかゆを
そこに、遊女たちに貸すための貸本を持って訪れたのが蔦重(横浜流星)。
松葉屋の花魁で幼馴染でもある花の井(小芝風花)から、仕出し屋の料理を詰め込んだ弁当を手渡されて、お互いに大切な人と慕う遊女の朝顔(愛希れいか)に届けるように頼まれます。
朝顔が身を置いているのは、吉原の場末である浄念河岸(じょうねんがし)の二文字屋で、江戸のなかでも下層階級客向けの「河岸見世(かしみせ)」と呼ばれる低価格の遊廓が集まっている場所として知られていました。
狭い長屋形式の二文字屋で働く河岸見世女郎たちは時間で身体を売るシステムで、料金は「線香が一本燃え尽きる間」だけ相手をして100文が相場。
現代にすると1,000円〜2,000円ほどという安い金額でした。
河岸見世で働いているのは、客が付かない女性、歳を重ねた女性、病気になってしまった女性などが多かったようです。
伊達巻やかまぼこ、黒豆などをおかずに白いご飯を食べていた松葉屋の遊女たちと違い、二文字屋の遊女たちが食べていたのは、いくら食べてもお腹が満たされそうもない薄い水っぽいおかゆでした。
おかゆすら口にできない「食わず」の日々も
場末の女郎たちがすすっていた薄いおかゆをみると、彼女たちが日々空腹に悩まされていたことが容易に想像できます。
数年前の「性差の日本史展」で紹介された『小雛不要之日記』(小雛という遊女の日記/嘉永2年(1849)3月〜4月)には、毎日の朝晩の食事が記録されています。
たとえば「腐った香々で茶漬け」や、朝晩ともに「香々で茶漬け」という日が多く、ほかには芋がらのおじや、ひば(干葉)のおじやなど、茶漬けやおじやの毎日。肉・魚・卵などのおかずが登場する日はありません。
こんな日々では、腹がふくれるどころか生きて行くうえで必要な栄養も取れなかったでしょう。
さらに、痛ましいのが朝夕ともに「食わず」と記述されている日が多いこと。
『小雛不要之日記』は、ドラマ『べらぼう』の時代よりも80年ほどあとの女郎の食事事情ですが、劣悪ぶりがかなり進んでいるように思えます。
売れっ子の花魁は銀シャリを
一般的に売れっ子の花魁は、妓楼の二階に個室を与えられ、食事も下女が運んでいたようです。
江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本で、遊里の内情や遊女の生活などを精密に描写した『錦之裏』(寛政3年)に、吉原の妓楼の朝食光景が描かれています。
花魁が朝食のおかずを尋ね「芋と油揚げ」と答えられて不満げな様子ですが、おかずこそ貧相なものの、ご飯は山盛りの白米だったようです。
当時は、米を作る側の農民でさえ収穫した白米の大部分を年貢として供出しなければならず、自分用の米はほとんどなかったそう。
お祝いやお祭りのときしか米は口にすることはできず、日頃は雑穀や麦飯だったので、毎日山盛りの銀シャリを食べられる吉原の花魁は恵まれているともいわれていました。
全国を歩き回り、娘がいる農家を尋ねては買い取る女衒(ぜげん)たちは、まだ10歳にもならないような少女を江戸に連れて行くときには「遊女になれば、毎日お腹いっぱい白いおまんまが食べられるよ」と言い聞かせていたとか。
実際のところは、妓楼が遊女たちに供するおかずは貧弱なものが多かったようです。
けれども、妓楼のトップスターの花魁などは、仕出屋から料理を取り寄せることもできました。
また、夜は着前のいい客が宴席を設けて、豪華な仕出し弁当などを取り寄せてくれるために、ご相伴に預かることもできたそうです。
女郎はどんどん死んだほうが入れ替わって客も喜ぶ
妓楼主が遊女たちへの経費を節約していたこともありますが、花魁よりも格下の遊女たちに「いつか花魁のようになりたい」という意欲を抱かせるためだったという説もあります。
ドラマの中では、河岸見世女郎たちの劣悪な状況を見かねた蔦重が、楼主たちに「遊女たちの食事を改善して健康体で仕事をさせたほうが、吉原にとってもいいことだ」と頼みますが、新興勢力の女郎屋「大文字屋」の大文字屋市兵衛(伊藤淳史)に、「女郎はどんどん死んだほうが入れ替わって客も喜ぶ」と、冷酷につき放たれてしまう場面がありました。
お湯で薄めたような薄いおかゆをすすり、安い料金で身体を売り、病に侵されても医者に診てはもらえない。
死んでしまえば遺体は投げ込み寺に運ばれ、埋葬される前には見ぐるみ剥がされ、裸で土の上に転がされる下層階級の遊女たち。
遊女たちを人間扱いせず、自分たちは豪華な料理屋の仕出弁当をつつきながら待遇改善など少しも考えない妓楼主たち。
食事内容の格差を通し、現代にも通じる上層階級と下層階級との大きな格差と感じさせられる辛い場面でもありました。
参考:
『遊廓と日本人』田中 優子 (著)
知られざる遊女たちの実像―― 新吉原遊郭最新研究 ミツカン水の文化センター
「梅本記」横山百合子
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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