田沼意次を罷免し、松平定信を筆頭老中に登用

画像:徳川家斉像(徳川記念財団蔵)public domain
「第十一代の若き徳川の将軍、幕政の立て直しに挑む。」
「一橋治済(生田斗真)の嫡男として生まれ、豊千代から家斉へ。15歳で第十一代将軍に就任。およそ50年にわたる長期政権を築き、歴代将軍の中で最長の在位年数を持つ。老中・松平定信(井上祐貴)とともに、財政再建や風紀の改善に取り組むが、時代の変化や内外の事情を背景に、次第に政務への姿勢に変化が現れていく。」
上記は、大河ドラマ『べらぼう ―蔦重栄華乃夢噺―』公式ホームページによる、徳川家斉(いえなり : 演 城桧吏)の人物評である。
徳川家斉は、1773年(安永2年)10月5日、一橋家当主・一橋治済の長男として生まれた。
のちに第10代将軍・徳川家治の養子となり、1786年(天明6年)に家治が50歳で病没すると、翌年15歳の若さで第11代将軍に就任した。

画像 : ※田沼意次(牧之原市史料館所蔵)public domain
家治は老中・田沼意次を重用し、重商主義に基づく改革を推進したが、御三家をはじめとする武家層の妬みや反発を受け、家治の死後に失脚した。
朱子学を基盤とする身分秩序を重んじる勢力にとって、元足軽の家柄である田沼家が出世し成果を上げることは、受け入れがたいことであったのである。
家斉が将軍に就くと、徳川吉宗の孫にあたる白河藩主・松平定信を老中首座に任じ、幕政を委ねた。
反田沼派の一人であった定信は、就任早々に意次を罷免し、その改革を次々に中止し、質素倹約と風俗統制を旨とする「寛政の改革」を断行した。
寛政の改革の影で贅沢三昧の生活をおくる

画像 : 松平定信自画像(鎮国守国神社所蔵 天明7年(1787年)6月)public domain
松平定信が実施した「寛政の改革」により、経済は停滞し、田沼時代の繁栄とは一変して不況に陥った。
さらに、あまりに厳格な政策は、町人のみならず、武士、幕府上層部や大奥に至るまで人々の反感を買い、定信は次第に孤立していった。
やがて将軍・徳川家斉と定信の対立が深まり、1793年(寛政5年)7月、家斉は父・一橋治済と図って定信を罷免し、ここに「寛政の改革」は終焉を迎えることとなった。
定信を老中から解任した家斉は、その下で幕政を補佐していた松平信明を老中首座に任命し、政治の舵取りを任せた。
しかし、1817年(文化14年)に信明が病没すると、翌年には側用人の水野忠成を老中首座に抜擢し、宿老たちを幕政の中枢から遠ざけてしまった。
こうして「大御所時代」と呼ばれる家斉の治世が始まった。
松平定信が質素倹約を推し進めていた当時から、家斉はすでに贅沢三昧の日々を送っていたが、賄賂を容認する忠成に政治を任せたことで、その傾向はいっそう強まった。
やがて、家斉自身もますます奢侈な生活に溺れるようになり、忠成ら幕閣は政策面でも外国船対策をうまく処理できず、「異国船打払令」を発するなど海防費が増大。
その結果、幕府財政の破綻、幕政の腐敗、綱紀の乱れが横行する事態を招いてしまった。
それでも家斉は、贅沢三昧の生活を改めようとはしなかった。
少なくとも16人の妻妾を持ち、歴代徳川将軍の中で最多となる53人の子女(息子26人・娘27人)を儲け、大奥の予算はうなぎのぼりとなった。
超人的としか言いようがない健康状態

画像:大奥の図 public domain
大奥の制度が確立した後、歴代将軍の中で「長寿」と呼べるほど長く生きた者はほとんどいない。
最後の将軍・徳川慶喜を除けば、70歳近くまで生きたのは家斉ただ一人である。
その理由としては、日常的な肉体鍛錬の不足や、伝染病に対する衛生知識の乏しさなどが考えられる。
さらに、大奥という特殊な環境の中で、夜ごと女性と交わる生活を続けたことも、寿命を縮める一因となったのではないだろうか。
ところが家斉は、16人以上の女性との間に53人もの子女をもうけるほどの旺盛な性生活を送りながら、当時としては長寿の部類に入る69歳まで生きた。
しかも、在職中の50年間、目立った病気はほとんどなく、病臥したのは数回の感冒程度だったという。
これは、まさに“超人的”としか言いようがない。
家斉の健康の秘密として知られるのが、「白牛酪(はくぎゅうらく)」と呼ばれる、今日でいうチーズに似た高タンパクの乳製品を好んで食したこと、そして精力増強のためにオットセイの陰茎を粉末にした薬を服用していたことである。
このことから、家斉は「オットセイ将軍」とも呼ばれた。
さらに家斉は大のショウガ好きとしても知られている。
一年を通じて食卓にショウガが欠かせず、そのため板橋宿では家斉のために促成栽培まで行われたという。
ショウガには血流促進や免疫力向上、胃腸機能の改善、身体を温める効果などがあり、もしかすると家斉の超人的な活力の源は、このショウガにあったのかもしれない。
余談になるが、家斉の趣味は、ペットとして飼っていた七面鳥の世話であった。
しかも、その鳴きまねやしぐさをするのが得意で、機嫌のよい時には妻妾や近臣の前で七面鳥の真似をして見せたという。
家斉の治世は、贅沢の蔓延によって幕府財政を大きく揺るがし、その後の幕府衰退の遠因となった。
しかし、260年に及ぶ江戸幕府の歴史の中で、これほど強烈な存在感を放った将軍もまた稀であったと言えるだろう。
※参考文献
鈴木壮一著 『遊王将軍・徳川家斉の功罪:賢臣・松平定信との相克』花伝社刊
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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