平安時代

摂関政治の最盛期を築いた藤原道長「栄華の裏で身体はボロボロだった」

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」

これは、藤原道長が後一条天皇に三女・威子を入内させて中宮とし、前例のない「一家立三后」を成し遂げたその立后の日に詠んだ、いわゆる「望月の歌」である。

この和歌は、社会科や歴史の教科書にも必ずといってよいほど掲載されているので、ご存じの方も多いだろう。

藤原道長は、平安時代中期の966年(康保3年)、摂政を務めた藤原兼家の五男として誕生した。

いくら隆盛を極めた摂関家とはいえ、五男という立場は大きなハンディキャップであり、本来ならば氏長者となる資格はなかった。

だが道長は、一条・三条両朝において摂政や関白には就任せず、内覧の地位にとどまりながらも、その権勢は摂政・関白に劣らぬものと評され、摂関政治の最盛期を築き上げた。

その歩みをたどれば分かるように、この人物は運の面から見ても只者ではなかった。

しかし一方で、道長は「望月の歌」を詠んだ頃から、華やかな生涯の裏で、糖尿病をはじめとするさまざまな病に長く苦しめられていたのである。

今回は、道長がいかにして権力の絶頂に至ったのか、そして栄華の陰で病に苦しんだ姿についてたどっていく。

画像:藤原道長 public domain

兄たちの相次ぐ死とライバルの失脚

990年(永祚2年)、父・兼家が死去すると、長男の道隆が関白となった。

しかし、道隆はおよそ5年で病没し、関白を継いだ三男・道兼も、その就任からわずか数日で死去してしまう。

この時、道長は摂関に次ぐ地位である内覧に就いていた。
これは道長の姉で円融天皇の后となった詮子(せんし/東三条院)の引き立てによるものであったという。

とはいえ、ここからすんなりと摂関の地位に就くことはできなかった。

それは、道長には道隆の長男で内大臣の伊周(これちか)という最大のライバルが存在していたからである。

画像:藤原伊周(これちか) public domain

ところが、その伊周が思いもよらぬ理由で失脚することになる。

996年(長徳2年)正月、藤原為光の四女のもとに通っていた花山法皇に対し、伊周は弟の中納言隆家と共謀し、待ち伏せして矢を射かけるという事件を起こした。

これは、伊周が想いを寄せていた為光の三女と花山法皇が親しくしていると誤解し、逆上して引き起こした凶行であった。

皇族に矢を射かけるという前代未聞の事件により、伊周は太宰権帥に左遷され、隆家も出雲権守に降格となり、兄弟はそろって失脚した。

画像:藤原定子 public domain

さらに兄弟の失脚に伴い、一条天皇の皇后であった妹・藤原定子も、自ら鋏を取って髪を切ったため落飾と見なされることになった。

この時、定子は妊娠中であり、翌年の正月に第一子・脩子内親王を出産している。

なお、定子に仕え、彼女の死去まで忠実にその側近を務めた女房が、随筆『枕草子』を著した清少納言である。

画像:清少納言 public domain

長女・彰子により道長の威信が高まる

藤原伊周が失脚した後、道長は、彰子(しょうし)を一条天皇の皇后に、妍子(けんし)を三条天皇の皇后に、そして威子(いし)を後一条天皇の皇后に立て、いわゆる「一家立三后」を成し遂げた。

彰子は、敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)をもうけ、妍子と威子もそれぞれ内親王を出産した。

さらに、六女の嬉子(きし)も、彰子の子である後朱雀天皇の后となり、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んでいる。

画像:藤原彰子 public domain

道長の娘たちの中でも、やはり彰子の存在は大きかった。
彼女が二人の皇子を天皇にしたことにより、道長の威信は大いに高まった。

彰子の存在があってこそ、道長の子孫は「御堂流」と呼ばれ、代々摂政・関白および、藤氏長者の地位を継承する礎が築かれたともいえよう。

ちなみに、彰子に仕えた女官が『源氏物語』を執筆した紫式部だ。

道長と彼女が恋愛関係にあったとする説は古くからあり、大河ドラマ『光る君へ』でも、その微妙な関係が描かれていた。

画像:紫式部 public domain

この点については、道長の人脈の一端として、改めて別の記事で紹介したい。

絶好期から糖尿病による合併症に苦しむ

こうして権勢の頂点に立った道長であったが、いわゆる独裁者ではなかった。

むしろ、政敵との調和を図りつつ政治を進める指導者であったとされる。

そのことは、かつてのライバルであった藤原伊周についても、一条天皇に対して朝政への復帰を提案している点からも明らかである。

画像:土佐光起筆『源氏物語画帖』邸内にいるのは道長のモデルとされる光源氏 public domain

学校の授業では、平安貴族は歌舞音曲や色恋にばかり興じ、地方政治を顧みなかったため、それが社会の混乱を招いたとよく語られる。

実際、荘園における受領(国司)の横暴や、1019年(寛仁3年)3月末から4月にかけて女真系とみられる海賊が壱岐・対馬・九州を襲撃した刀伊の入寇への対応は、決して十分なものではなかった。

しかし、平安貴族の中でも道長のような執政官は、宮中でのさまざまな儀式や役人の監督に追われ、ほとんど休む間もなく働いていたのである。

しかも慢性的な運動不足や、贅沢で偏った食料事情による影響で、道長も「一家立三后」を成し遂げ、人生の絶頂期であった頃から糖尿病による合併症により、胸病の発作や視力の衰え(白内障)に苦しんでいたとされる。

当時は現在のような医療技術がなく、病を治すには神仏に祈ることが唯一の方法と考えられていたため、平安貴族たちは皆、信心深かった。

画像:法成寺跡の石碑 public domain

道長も例外ではなく、1019年(寛仁3年)に長男・頼通に実権を譲ってからは、自ら造営した無量寿院(法成寺)に住み、本堂に安置した九体の阿弥陀像の前で、読経や念仏の日々を送ったと伝えられる。

そして1027年(万寿4年)12月4日、死期を悟った道長は、九体の阿弥陀如来の手と自らの手とを糸で結び、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみながら西方浄土への往生を願い、62年の生涯を閉じたのである。

※参考文献
山中裕著 『藤原道長』吉川弘文館刊
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史 日本史100人の履歴書』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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