都での出世を悉く跳ね返された将門の前半生

画像:平将門像(築土神社旧蔵)public domain
少なくとも1600年以上の歴史を誇る日本の天皇家。
しかし、その長い歴史の中で、天皇家は幾度となく滅亡の危機にさらされてきた。
その一つが、10世紀前半に平将門(たいらのまさかど)が関東で起こした天慶の乱である。
将門の生年は定かではないが、おおよそ9世紀末から10世紀初頭とされている。
享年38と伝わることから、903年(延喜3年)生まれとするのが一般的だ。
将門の父は、鎮守府将軍・平良将(たいらのよしまさ)である。
彼は桓武天皇の孫で臣籍降下した高望王(平高望)の三男で、母は藤原北家・良方の娘という、桓武平氏の嫡流にあたる。

画像 : 『桓武天皇像』延暦寺 蔵 public domain
10世紀に入ると、中央の朝廷における高位高官の地位は、藤原北家を中心に一部の源氏などの有力一族によって独占されるようになった。
その結果、これに属さない皇族や貴族たちは、地方に活躍の場を求めるようになる。
賜姓皇族である桓武平氏も例外ではなく、関東地方を中心に各地の国衙に役人として赴任し、そのまま土着して次第に勢力を拡大していった。
そのような中、将門は15歳のときに京へ上り、摂政・藤原忠平に仕えた。
将門は桓武天皇の五世の子孫にあたる名門の出であったが、藤原氏の政権下においては滝口の衛士という地位にとどまり、提示された官位も六位以下と低かった。
それでも将門は約12年間在京し、軍事・警察・司法を司る検非違使の次官・佐(すけ)や、三等官・尉(じょう)の官職を望んだものの、ついに果たすことができず、失意のうちに東国へ帰ることとなった。

画像:検非違使『伴大納言絵詞』 public domain
ちなみに、検非違使の佐は従五位下に相当し、最下級ながらも「貴族」として扱われる身分である。
たった一階級の差ではあるが、五位と六位とでは収入面において倍近い格差があった。
時代によって変動はあるものの、当時約7,000人いた官人のうち、五位以上の者はわずか120人ほどにすぎなかったとされる。
すなわち、貴族の割合は官人全体のわずか2パーセントにしか満たなかったのである。
将門は、天皇五世という出自を誇りとしながら、時の最高権力者に仕えることで、都で貴族の地位を得ようと努めたが、悉く跳ね返された。
そのような都での屈辱と挫折が、やがて朝廷への反逆心を育み、関東を独立させるという野心へとつながっていくことになる。
平氏一族の争いが国司らを巻き込み、反乱へ発展

画像 : 坂東平氏の英雄・平将門。豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」public domain
平将門が起こした天慶の乱の基本史料に、『将門記(しょうもんき)』がある。
同書によれば、天慶の乱の発端は、坂東における平氏一門の内紛であった。
その原因は所領をめぐる争いであったと考えられているが、『将門記』には「女論(にょろん)」、すなわち女性をめぐる問題によって将門と平良兼(よしかね)が不和になったと記されている。
良兼は将門の父・良将の兄であり、将門の正妻は良兼の娘であった。
彼女をめぐって両者の間にいさかいが生じたと伝えられるが、その詳細は明らかではない。
いずれにせよ、こうした平氏一族の私闘が次第に国司らをも巻き込み、やがて将門は朝廷に背く謀反人として追い込まれていったのである。
全国的に騒然とした情勢を受けて反乱に立ち上がる

画像:平将門像(茨城県坂東市)
では、『将門記』をもとに、天慶の乱における将門の動きを時系列でたどってみよう。
● 931年(承平元年)…将門と良兼が「女論(にょろん)」をめぐって対立する。
● 935年(承平5年)2月…将門が常陸国で叔父・平国香らを破る。
● 936年(承平6年)7月…下野国で良兼および国香の子・平貞盛を撃破。
● 937年(承平7年)10月…将門と良兼が筑波山で戦う。
● 937年(承平7年)12月…良兼が将門の本拠・岩井営所を夜襲するも撃退される。
● 938年(天慶元年)2月…将門が、訴えのため上洛しようとした貞盛を信濃国で追うが、取り逃がす。
● 939年(天慶2年)6月…良兼が死去し、貞盛は逃亡。
● 939年(天慶2年)11月…将門が常陸国府を攻略。
● 939年(天慶2年)12月…将門、坂東諸国を支配下に置き「新皇(しんのう)」を称する。
● 940年(天慶3年)…貞盛が藤原秀郷と協力し、将門を破る。
● 940年(天慶3年)2月14日…将門、貞盛・秀郷の軍によって討たれる。
将門が反乱を起こした天慶年間は、自然災害や天候不順に見舞われた時代だった。
938年(天慶元年)4月、京都で大地震が発生し、多くの舎屋が倒壊。
さらに5月には大雨により鴨川が氾濫した。
翌939年(天慶2年)には旱魃が発生し、春から米価が高騰した。
こうした状況下、各地で群盗や海賊の活動が盛んになり、出羽国では俘囚(ふしゅう : 朝廷の支配下に置かれた蝦夷)が反乱を起こすなど、全国的に騒然とした情勢となっていた。
かつて藤原忠平に仕えていた将門は、こうした情報をいち早く耳にしていただろう。また、全国的な騒乱に慌てふためく京都朝廷の様子も伝わってきたはずである。
こうした情勢の中で、将門は反乱に立ち上がったのである。
現在も関東の守護神として崇敬される将門

画像:神田神社社殿 public domain
坂東諸国を掌握した将門は、自ら「新皇(しんのう)」の位に就いたことを宣言した。
それは、事実上の天皇即位にほかならなかった。
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、時を同じくして西国では藤原純友の乱が勃発。
二つの反乱は朝廷を大いに震撼させた。
とりわけ注目すべきは、将門の反乱が単なる謀反にとどまらず「京都の朝廷からの完全な独立」を目指した点である。
彼は、朝廷が畏怖する菅原道真の霊から宣託を受けたとして、それを即位の根拠に掲げ、下野・上野・常陸・上総・下総・安房・相模・伊豆の八国に国司を任命した。
さらに、左右大臣・納言・参議など文武百官を置き、内印・外印を鋳造して、坂東に京都とは別の「新しい国家」を樹立しようとしたのである。

画像:月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」 public domain
しかし、将門の最期はあまりにもあっけなかった。
藤原秀郷・平貞盛との決戦で一時は優勢に戦いを進めたものの、風向きの変化によって敵勢の矢が勢いを増し、そのうちの一本が将門の額を貫き、彼は壮烈な最期を遂げた。
そのような将門を、東国の人々は深く崇敬した。
それは、混乱する関東の地を、京都の朝廷に代わって自らの手で救おうとした将門の志に、人々が心から共鳴したからに他ならない。

画像:将門塚 public domain
神田明神、帝立山妙善寺、香取神社、國王神社、築土神社、将門塚など、将門を祀る神社や寺院はいまも数多く残る。
将門はなおも、関東の守護神として人々に敬われ続けているのだ。
※参考 :
佐藤信編 『古代史講義 戦乱篇』ちくま新書刊
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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