古今東西、非業の死を惜しまれた者はとかく生存説がささやかれるもの。
有名なところでは源義経(みなもとの よしつね)がチンギス=ハーンになってユーラシア大陸を制覇したとか、明智光秀(あけち みつひで)が南光坊天海(なんこうぼう てんかい)として長寿を保ったとか。
あわせてその死が疑問視された者についても生存説がささやかれ、その名を称する者の出没情報に接することも。
「アイツがそんなことで死ぬはずがない!きっとどこかで生きているに違いない!」
今回はそんな期待が具現化してか、討たれた後もたびたび天下を騒がせた悪党・源義親(みなもとの よしちか)のエピソードを紹介したいと思います。
九州や出雲国で暴れ回った「悪対馬」
源義親は生年不詳、奥州征伐(前九年の役、後三年の役)で武名を馳せた八幡太郎こと源義家(よしいえ)の次男として生まれました。
母は源隆長女(たかながのむすめ)、正室であったため嫡男として育てられ、従五位下の位階と左兵衛尉の官職を授かります。
続いて対馬守(国司)となって現地(現:長崎県対馬市)に赴任し、肥後守である高階基実女(たかしな もとざねのむすめ)を正室に迎えて多くの子を授かりました。
長男:源義信(よしのぶ。対馬太郎)
次男:源義俊(よしとし。対馬次郎)
三男:源義泰(よしやす。対馬三郎)
五男:源義行(よしゆき。対馬四郎)
※四男の源為義(ためよし。頼朝の祖父)と六男の源宗清(むねきよ)は側室の子と推測されています(それぞれの母は不明、諸説あり)。
こう見ると順風満帆な人生に思われますが、父譲りの武勇を備えながら「こんなちっぽけな離島で小さく収まっていられるか!」とでも思ったのか、義親は暴発。
人々を虐殺し、財物を略奪……海賊のように玄界灘を駆け巡っては九州各地を荒らし回ったため「悪対馬(悪対馬守。悪は憎らしさと強さを合わせた表現)」と恐れられました。
そして康和3年(1101年)、あまりの乱暴狼藉を見かねた大宰府(現:福岡県太宰府市)の大江匡房(おおえの まさふさ)が都へ訴えを起こします。
さっそく朝廷では義親を追討すべきか検討され、まずは父の義家から、郎党の藤原資道(ふじわらの すけみち)を派遣して説得を試みました。
しかし、義親はよほど口が巧かったらしく、資道は逆に丸め込まれて義親の手先に。まさにミイラ取りがミイラになってしまいます。
ダメだこりゃ……ということで説得を諦めた朝廷は康和4年(1102年)、義親を隠岐国へ流刑に処しました。
が、それで大人しく流されるようなタマではなく、道中の出雲国で目代を殺害。官物を略奪して再び暴れ回る始末(一度は隠岐国へ渡り、再び戻って来たという説も)。
「子の謀叛は、親が始末せよ!」
「ははあ……」
もう老い先も短いのに、何の因果で我が子を討たねばならぬのか……泣く泣く義親追討の命を受けた義家でしたが、嘉承元年(1106年)に亡くなってしまいます。
そこで代わりの追討使として平正盛(たいらの まさもり。清盛の祖父)が抜擢されました。特に武功もない正盛でしたが、嘉承2年(1107年)12月19日に任じられたと思ったら、嘉承3年(1108年)1月6日にはアッサリ義親を討伐。
正盛は京都へ凱旋して厚く恩賞を賜り、義親の首級は梟首(きょうしゅ。さらし首)とされます。
「それにしても、取り立てて武勇の覚えもなき因幡守(正盛)殿が、かの『悪対馬』を討ち取ろうとは……」
今一つ合点がいかない人々の噂は広がり、第二・第三そして第四までも「義親」が現れ続けるのでした。
2人目の義親、越後国に現る!
義親の死から月日は流れて永久5年(1117年)、越後国(現:新潟県)に義親と自称する法師が出没。豪族・平永基(たいらの ながもと)の館に出入りします。
永基がどういう意図をもって受け入れたかは不明ですが、その情報を得た国司は義親法師の身柄引き渡しを命じました。
すると永基は義親法師を斬首。その首級を国司へ差し出しますが、誰の首かもよく判らなかったと言います(面の皮でも剥いだのでしょうか)。
「これではかの法師か、判らぬではないか!」
「何と仰せられましょうと、これぞ法師の首級にございますれば、どうかご査収願いたい!」
検非違使の尋問を受けた永基でしたが、結局のところ口を割らず、真相は不明のまま。
「匿いだてすると、為にならぬぞ!」
「我が館の内において、我れがおらぬと言えばおらぬのじゃ!」
この様子では、きっと身代わりの首を刎ねて法師本人は逃がしたのでしょう。どこへ行って何をしたのか、その後に登場する義親たちとの関係は不明です。
3人目の義親、今度は常陸国に出現!
そんな事があった翌年(元永元・1118年)、今度は常陸国(現:茨城県)で義親を名乗る者が現れました。
「昨年、越後を騒がせたインチキ坊主か、それに乗じた偽者か……ただちにひっ捕らえよ!」
下総守であった源仲政(なかまさ。源頼政の父)はこれを捕らえるべく追手を繰り出しますが、逃げられてしまいます。
すぐに見つかると思っていたら、その足取りはなかなかつかめず、5年後の保安4年(1123年)にようやく捕らえられたのでした。
どこをどうやって逃げたのか、下野国(現:栃木県)で拘束した義親の身柄は京都まで護送され、検非違使に引き渡されます。
「何と……あの悪対馬めが」
かの逆賊・義親の姿を見ようと白河法皇(しらかわほうおう)や鳥羽上皇(とばじょうこう)までが出て来る騒ぎになりましたが、結局「この者は悪対馬の名を騙った偽者」として梟首に処されたのでした。
どっちが本物かを争った4人目&5人目の義親
それから更に数年が経った大治4年(1129年)9月、義親を名乗る者が坂東から入洛(じゅらく。京都入り)したとの噂が立ちます。
また出たか!さっそく捕らえよ……と言うかと思ったら、どういう訳か鳥羽上皇はこの義親を藤原忠実(ただざね。前関白)の鴨院邸に預からせました。
なぜ謀叛人を住まわせておくのか……人々がいぶかしんでいた翌年(大治5・1130年)、近江国大津(現:滋賀県大津市)からやって来た男がこちらも義親と自称。
区別をつけるためにそれぞれ「鴨院義親」「大津義親」と呼び分けました。
「鴨院と大津、どっちが本物の義親なんだ?」
「そりゃ決まってる。戦って勝った方さ!」
と煽ったのかどうか、同年10月に両方の義親が互いに手下を引き連れ、四条大宮にある源光信(みつのぶ)邸前で大乱闘を演じます。
「大津の偽者、この悪対馬が討ちとったり!」
戦いに勝利して「本物」の実力を証明した?鴨院義親。しかし翌11月に夜襲を受けて攻め滅ぼされてしまったのでした(犯人は光信らとされています)。
終わりに
以来「義親」が出没することはなくなったのですが、初代?義親の死から20年以上にわたって天下を騒がせ続けたその悪名は、まこと尋常ならざるものでした。
当時の人々にとって、源「悪対馬」義親という名前は一種のブランドであり、悪党たちにとっては憧れの的であったのかも知れませんね。
※参考文献:
- 下向井龍彦『日本の歴史07 武士の成長と院政』講談社、2001年5月
- 竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫、2004年10月
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