奈良時代には大陸からもたらされた文化が色濃く残っていましたが、894年に遣唐使が廃止されると、日本独自の文化が花開いていきました。
それは文字や衣装、宗教、建築など幅広く、現代の日本人にも少なからず影響を与えています。
今回は、平安400年間で花開いた国風文化の凄さについて触れてみたいと思います。
ひらがな・カタカナもこの時代に
大陸文化が色濃く残っていた頃、文字といえば「漢字」でした。
奈良時代から万葉仮名は使われていたものの、平安時代になると漢字と平行して「ひらがな」や「カタカナ」などの仮名文字が広く使われるようになっていったのです。
ひらがなは漢字を草書体で書いた時の形がもとになっており、主に女性が使い始めました。
一方、カタカナは漢字の一部に由来したものが多く、漢文を読むときの補助として使われました。
女性作家と和歌
この時代、天皇と娘を婚姻させることにより、后妃の実家が天皇の外戚として権力を持つようになっていました。
特に摂関政治を行った藤原氏は、天皇の后妃とするために入内させた娘に、選抜した有能な女性を側仕えとしてつけました。
中流貴族たちは自分たちの娘を藤原氏に選んでもらうために、娘を熱心に教育しました。
そのため、教育を受けた子女の中から紫式部や清少納言などの女流作家が誕生し、多くの文学作品が生まれたのです。
それまでは文字といえば漢字で貴族男性が書くものでしたが、女性が熱心に教育されて宮中に上がって活躍する中で仮名文字が誕生し、女性も気軽に文字が書けるようになりました。
そのため女流作家が多く誕生し「源氏物語(紫式部)」「枕草子(清少納言)」「更級日記(菅原孝標女)」などの名作が生まれました。
また、番外として紀貫之がひらがなを使用して書いた「土佐日記」などもあります。
ひらがなが広く使用されるようになると、和歌も多く詠まれるようになりました。
衣服も日本独自に変化
当時の服装は、唐の文化が色濃く残っていた天平衣装や、貴族女性は女房装束や十二単、男性貴族は朝服、礼服、制服、そして束帯やそれを簡略化した衣冠などがありました。
貴族女性が身にまとっていた衣装は、昔話の「浦島太郎」に出てくる乙姫様の衣装を想像していただけるとわかりやすいと思います。
平常服は男性が直衣・狩衣、女性は小袿を着用していました。
宗教
奈良時代には特定の宗派のみを奉じる寺院は少なく、南都六宗と呼ばれる「三論宗・成実宗・法相宗・俱舎宗・華厳宗・律宗」も、それぞれ別々の宗派というよりは、互いに教義を学びあっていました。
それに対して平安仏教は、朝廷の保護を受けて政治的力を持ちすぎた南都六宗に対抗する新しい仏教として、最澄が学んできた天台宗や、空海が学んだ真言宗を保護しました。
また、平安仏教の特徴として山岳信仰があげられます。
最澄は比叡山に延暦寺を建立し、空海は高野山に金剛峰寺を建立しました。
そのため寺院の多くは「山号」というものを持つようになり、比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺、金龍山浅草寺というように、山号と寺院名をセットにして呼ぶのが正式名称となります。
奈良・平安どちらの時代の仏教も「鎮護国家」を掲げていましたが、平安仏教では天台宗・真言宗ともに加持祈祷を行う宗派であったことから、現世利益を求める貴族たちに人気がありました。
その他、八百万の神々は仏や菩薩の化身であるとする考え「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」や、天災や疫病は怨霊の仕業だと考えられ、怨霊を鎮めるために「御霊会(ごりょうえ)」などを行いました。
建築
質実剛健な重厚な造りの奈良時代の建築物に対して「寝殿造」という建築様式が確立しました。
代表的な建物としては宇治の平等院鳳凰堂や、岩手県の中尊寺金色堂があげられますが、上品で繊細な造りで庭に池が存在し、多くの樹木が植えられており、四季折々の自然を眺めることができました。
終わりに
平安時代の文化は、貴族を中心に優雅で華やかなものが多く、和歌や文学作品も数多く誕生しました。
また、権力を持っていた宗教を政治から離す目的で、唐から持ち帰られた天台宗や真言宗が中心になり、現世利益を求める貴族たちからの人気を得ました。
平安時代は、大陸文化が色濃く残っていた奈良文化を土台にしながらも、日本的な美しさが作られた時代だったのです。
参考文献
佐藤信「律令国家と天平文化(日本の時代史4)」吉川弘文館
飯淵康一「平安時代貴族住宅の研究」中央公論美術出版
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