平安時代、朝廷との円満な関係と信頼関係を築き、およそ100年もの間、平泉を中心に自治支配を行い独自の文化を花開かせた奥州藤原氏。
初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)から4代目の泰衡(やすひら)までの遺骸はミイラとなり、今も中尊寺金色堂に眠っています。
奥州藤原氏とは
平安時代後期の「前九年の役・後三年の役」の合戦が終戦した1087年から、源頼朝に滅ぼされるまでの1189年までのおよそ100年間に、平泉を中心とした東北地方全域を治めていた藤原清衡(きよひら)基衡(もとひら)秀衡(ひでひら)泰衡(やすひら)の4代が、奥州藤原氏と呼ばれています。
奥州藤原氏が統治する以前の東北地方は、朝廷から距離があることもあり中央政権の支配もそれほど強くはありませんでした。
初代の藤原清衡は、朝廷や中央政権で力を持っていた藤原摂関家に献上品などを欠かさなかったことで、朝廷から信頼を得ていました。
そのため政争に巻き込まれることもなく、独自の政権と文化を築くことができたのです。
ミイラが眠る中尊寺金色堂とは
奥州藤原氏が統治の中心としていた岩手県の平泉にある中尊寺金色堂は、初代・清衡が1124年に建立したものです。
内部は螺鈿細工など細かで煌びやかな装飾が施されており、浄土建築の代表例であるとともに、当時の技術を集めたものとして現在は国宝に指定されています。
方三間の平面5.5mの仏堂ですが、現在はその外側は鉄筋コンクリートの建物に覆われており、ガラス張りのスペースによって外気と遮断されています。
年輪年代測定法により、木材の伐採年代が1114年から16年頃と特定され、建立年代に矛盾が生じていないことも判明しました。
奥州藤原氏の身長や血液型が判明
奥州藤原氏のミイラは、1950年に学術的調査が行われました。
※中尊寺にある奥州藤原氏四代のミイラ
https://twitter.com/kazekomachi7777/status/995214524423618562
そして、それぞれのミイラについて身長や血液型などが判明しています。
奥州藤原氏のミイラは、エジプトのファラオのように人工的に作られたものではなく、自然とミイラ化する条件がそろっていたというのが定説です。
初代・藤原清衡
奥州藤原氏初代・清衡は、大治3年7月13日(1128年8月10日)頃に亡くなっており、歯の状態から没年齢は70代以上とみられています。
平安時代中期頃の貴族男性の平均寿命はおよそ50歳だったとされているので、清衡はこの時代の人にしてはだいぶ長生きであったことがわかります。
身長は159㎝、血液型はAB型。
調査当時、他の三人と比べて保存状態があまり良くなく広範囲に白骨化が進んでいました。頬骨の秀でた比較的短い顔で鼻筋が通り、手は小さく華奢、体系はやせ型で左半身に顕著な骨委縮がみられたため、脳出血や脳梗塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと考えられています。
紫絹の枕や銀・琥珀の数珠、太刀、小刀、金塊などの副葬品がともに入れられており、藤原氏の権力を象徴しています。
二代目・藤原基衡
基衡は、保元2年3月19日(1157年4月29日)頃に亡くなったとされていますが、没年については50歳代半ばから60歳前後と幅がある見方になっています。
身長167㎝、血液型はA型。当時としては高身長です。
副葬品として白絹の枕、水晶の数珠、刀が入っていました。
太く短い首に、よく発達した胴、熱く広い胸幅、いかり肩で腰から下は比較的小さく肥満体質で、右側上下肢に軽度の骨委縮がみられ右半身不随があり、脳出血や脳梗塞、脳腫瘍などで急死した可能性が指摘されています。
三代目・藤原秀衡
秀衡は、文治3年10月29日(1187年11月30日)に亡くなり、没年令については60歳から70歳くらいと推定されています。
身長は164㎝、血液型はAB型です。
いかり肩で肥満体質、胴回りは幅が広く厚く、鼻筋の通った高い鼻で首は短く、面長であごの張った大きな顔であったようです。
虫歯もあり重度の歯槽膿漏であったことから、かなりの美食家であったことがうかがえます。
死因は背骨の外傷から菌が侵入したことによる骨髄炎性脊椎炎で、敗血症も併発していたと考えられ、高血圧・むくみがみられたことから腎疾患と心不全もあったと思われます。
副葬品は木製の杖、木製・ガラス製の数珠、金装の水晶、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦などの織物、金銅鈴などの豪華なものでした。
四代目・藤原泰衡
泰衡は他の三人と違い、処刑されたうえに首を晒されたので、身長や体型などはわかっていません。
文治5年9月3日(1189年10月14日)に亡くなったとみられ、血液型はB型です。
歯の状態から、20歳から30歳くらいと推定されています。
首桶には「忠衡」と書かれていましたが、調査の結果、泰衡である可能性が高いことがわかりました。
この首には太刀による傷が7か所あり、首を落とす際に5回失敗し残りの2回で切断されたこと、また眉間の左から後頭部にかけて八寸釘を打たれた穴が残っており、釘打ちの刑に処されて「さらし首」にされたことがわかります。
終わりに
偶然ミイラとなった奥州藤原氏四代は、現在も中尊寺金色堂の須弥壇に眠っています。
現在、ミイラの一般公開の予定はないそうです。
ミイラを見ることはできませんが、中尊寺金色堂は金が豊富に採掘された地域にあり、独自の文化を築き上げた奥州藤原氏の当時をしのぶことができる場所です。
他にも毛越寺や観自在王院跡、無量光院跡など浄土庭園を楽しむことができます。
中尊寺に向かわれる際には、この地で栄華を誇った藤原氏を思い浮かべてみてください。
参考文献 :
朝日新聞社編「中尊寺と藤原四代:中尊寺学術報告(朝日新聞社)」
日本ミイラ研究グループ編「日本・中国ミイラ信仰の研究(平凡社)」
高橋富雄「奥州藤原氏四代(吉川弘文館人物叢書)」
須藤弘敏、岩佐光晴「中尊寺と毛越寺(保育社)」
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