紫式部を主人公にした大河ドラマ「光る君へ」で今注目されている「平安時代」。
平安時代といえば、十二単をまとった華やかな貴族の姿が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
貴族たちの収入源としては、荘園からのものだけでなく官職に応じて支払われる俸禄もありました。女性も宮中に出仕し俸禄を得て、経済的に自立していた人も少なくなかったと言います。
今回は内裏(だいり)内における女性の役職について解説いたします。
内裏・大内裏とは
内裏(だいり)というのは、宮城の中の天皇が座しているところで、天皇の私的な在所のことです。
平安時代では960年に内裏が火災で全焼してしまい、その後も何度か火災に見舞われました。
里内裏と言われる内裏以外の在所に天皇が在所するようになると、内裏としての意義が低下し、平安京の内裏は鎌倉時代に焼失後は再建されなくなりました。
大内裏(だいだいり)というのは、内裏の他に政治や行事を行う建物も含められています。
大内裏には左右各近衛府や太政官府、八省庁などの官吏が政務を行う場所がありました。
宮中における女性の役職
平安時代の政治は律令制と言われているもので、内侍司(ないしのつかさ)という女性を管理する役所もありました。
その中の役職には序列があり、仕事内容も違っています。
花形の要職
・尚侍(ないしのかみ)
内侍司の中でトップに位置する役職。2人選ばれていました。権力がある家の女性が多く選ばれていました。
后妃となる前の箔付けのためにこの役職についた例もあり、主な仕事は天皇の命令を臣下に伝え、臣下からの文書を取り次ぐなどで、天皇の秘書のような役割でした。
後に后妃としての意味合いが強くなり、役職自体が設置されなくなっていきました。
・典侍(ないしのすけ)
尚侍に次ぐ副官的な役職で4人選ばれ、実務の取り仕切りを行っていました。
祭祀や仏事、祭礼の使者などを行い、普段は天皇・皇后の身の回りの世話や献上品などの官吏、来客の取次など幅広い仕事をこなしていました。
天皇の乳母としての役割を担うようになると、実務は掌侍が取り仕切るようになっていきました。
・掌侍(ないしのじょう)
内侍司の判官を担っていた役職で通常は4人。尚侍や典侍の支持に従って内裏内部の事務処理や儀礼の執り行いをしました。
平安時代中期から尚侍が后妃、典侍が乳母の役割を果たすようになってくると、掌侍が実質的な実務のトップとなり重要性が高まりました。
その中でもトップに立つ人を「勾当内侍(こうとうのないし)」といい、三種の神器の一つ・八咫鏡を安置する内侍所内の勾当(こうとう : 事務を担当して処理すること)に努めていたことから、このように呼ばれるようになりました。
下級女官
実際に作業を行う下級女官です。仕事の内容によっていくつかの部署に分かれていました。
・女孺(にょうじゅ)
「めのわらわ」とも呼ばれ、掃除や灯りをともすなどの雑務を行いました。定員100人という大人数で構成されていました。
・命婦(みょうぶ)
官職ではなく立場が五位以上の女性を「内命婦」、五位以上の夫を持つ妻を「外命婦」と呼んでいたようです。
最初は天皇の儀式毎に奉仕する女性が決まっており、水取命婦や博士命婦などが置かれていましたが、摂関政治が始まると父や夫のついている官職にちなんで少将命婦や中務命婦などと言われるようになり、次第に固有名詞となって特定の個人を表すようになりました。
・女蔵人(にょくろうど)
女蔵人も下級女官で宮中の雑用を行っていました。
仕事内容は主に裁縫や装束に関することでしたが、備品の管理や儀式・宴の際の物資の管理、御膳の配膳など多くの仕事をこなしていました。
・姫大夫(ひめもうちぎみ)
東豎子(あずまわらわ)といわれた下級女官の役職の一つですが、三つ子の女子が天皇を守るという伝承から、三つ子の女の子がこの役職についていたといわれています。
しかし、延喜式では定員は4人とされています。
普段、後宮では女官として働き、天皇が行幸する際には男装して職務にあたりました。
終わりに
このように多くの女性が宮中に出仕し俸禄を得ていました。
源氏物語を書いた紫式部は中宮彰子の女房をしていたということなので、掌侍以上の役職についていたのではないかと考えられますが、はっきりとした記述は残っておらず憶測の域をでません。
当時、政治の中心は男性であり、学問なども男女平等ではなかった中で漢詩などを読みこなしていた紫式部は、優秀な人材だったことでしょう。
参考
倉本一宏「紫式部と平安の都(吉川弘文館)」
桃崎有一郎「平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世(吉川弘文館)」
大隈晴陽「官位相当制『日本史大事典2』(平凡社)」
この記事へのコメントはありません。