NHKの連続ドラマ「光る君へ」で脚光を浴びている平安時代。
主人公の『源氏物語』作者・紫式部はもちろんのこと、清少納言・赤染衞門・和泉式部など当時の傑出した女流歌人・文学者たちも注目が集まっています。
なかでも、和泉式部は優れた歌の才能の持ち主であると同時に、数々の男性たちと恋愛を繰り返した恋多き女性としても有名です。
あるときは情熱的な小悪魔のように、あるときはかぐや姫のような「高値の花」ぶりで、平安の男たちを魅了していった和泉式部のドラマティックな恋愛ヒストリーを探ってみました。
目次
結婚して子どもをもうけるも、禁断の不倫愛に陥る
和泉式部が生まれたのは、紫式部と同じ頃の天元年間(970年代)頃と推測されており、父親は、越前国の国司大江雅致(おおえのまさむね)と伝わっています。
和泉式部は、最初に和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚し、和泉国(現在の大阪府南西部・和泉市)に下りました。二人は女の子をもうけますが、結婚生活はあまり幸せではなかったそうです。
不倫スキャンダルで勘当されてしまう和泉式部
和泉式部は夫のある身にもかかわらず、当時の天皇・冷泉帝の三男・為尊親王(ためたかしんのう)に言い寄られて恋に落ちてしまいました。
二人の不倫スキャンダルは宮中を駆け巡り、和泉式部は父親に勘当されて夫の道貞からは離縁されてしまいます。(すでに夫の道貞は、ほかの女性に心を移していて和泉式部には愛情がなかったという説もあります)
平安時代の歴史物語『大鏡』によると、為尊親王は遊び好きで軽いところのある、今でいうところのチャラ男だったとか。
当時の京都は、道端に死体が転がっているほど流行病が蔓延していたのにもかかわらず、為尊親王は夜遊びをしたり和泉式部のもとに足繁く通っていたためか病にかかり、26歳頃に亡くなってしまいます。
夫に離縁されてまで夢中になった不倫の愛が終わってしまい嘆き悲しむ和泉式部ですが、そんな彼女を慰めるために、使者を介して橘の花を送ったのが、為尊親王の弟・敦道親王(あつみちしんのう)でした。
亡くなった不倫相手の弟と愛を深める
「橘の花」は、『古今和歌集』の中で「橘の花の香りは昔の人の袖の香」と詠まれていたことから、「昔の恋人などを思い出させる花」というような意味合いがありました。
和泉式部は、敦道親王が橘の花に「あなたは、亡くなった兄のことを懐かしんでいるでしょうか」という意味を託しているのではと察します。
「薫る香に よそふるよりは ほとどぎす 気かばや おなし声やしたると」
(橘の花の香りであの人を思い出すより、あなたに会ってあの人と同じ声をしているか聞いてみたいもの)
と、誘いのニュアンスがある大胆な句を詠んで送ります。敦道親王はこれに対し……
「おなじ枝に 鳴きつつをりし ほととぎす 声は変はらぬものと 知らずや」
(同じ枝にいるほととぎすは声も同じものです。私も兄の声と同じですよ)
敦道親王も、「それでは、お会いしてお聞かせしましょう」という意味が含まれているような積極的な句を返しました。
敦道親王は容姿端麗なうえに歌の才能にも恵まれていたとか。才能あふれる和泉式部との「恋の始まり」を感じさせるやりとりです。
百数十首にものぼる句による恋の駆け引き
和泉式部と敦道親王は、和歌や手紙などを取り交わしていくうちに互いの想いを深めて行ったようです。
徐々に和泉式部への想いが深くなった敦道親王は、美しい彼女を他の男性が誘惑するのが心配だったのか、自分の女房(使用人)にしようと自宅に和泉式部を呼び寄せてしまいます。
ところが敦道親王の正室が、和泉式部は夫の恋人だと気づき、正妻は激怒して実家に帰ってしまうのでした。
『和泉式部日記』には、和泉式部が敦道親王と交わした和歌が百数十首にも渡り収録され、二人の恋愛模様や和泉式部のありのままの心情が綴られています。(他者が書いたという説もあり)
惚れすぎて「花を盗んだ」勇ましい藤原保昌
その後、為尊親王と同様に若くして敦道親王も亡くなり、一人になった和泉式部は、一条天皇の中宮で藤原道長の娘・藤原彰子に仕え、紫式部や赤染衛門らと文化的サロンを築きました。
次に和泉式部に夢中になったのは、藤原道長に仕えて「道長四天王」の一人と呼ばれた藤原保昌(やすまさ)です。
保昌は彼女に一目惚れして求婚するも、相手にされませんでした。
ところがある日、「紫宸殿の梅を折ってきてくれたら結婚してもいい」と和泉式部に言われます。紫宸殿は平安京内裏の最も位の高い御殿ですが、和泉式部は「そこから花を奪ってこれたらね」という、いわゆる無茶振りをしたのです。
警備が厳しい紫宸殿ですが、藤原保昌は果敢にも忍び込みます。そして弓を射かけられるも、なんとか一枝手折ることに成功し、ようやく和泉式部と結婚することができました。
日本三大祭・祇園祭の山鉾のひとつ、保昌山(ほうしょうやま)は、そのときの様子を表現したものです。
御神体(藤原保昌の人形)は緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅を一杯にもって捧げています。
保昌山は古くは「花盗人山」と称されていたそうです。
魂が抜け落ちそうなほど思い悩む和泉式部
まるで「かぐや姫」を彷彿させるようなドラマティックなエピソードで結ばれた、藤原保昌と和泉式部。
ところが、そもそも馬で野山を駆け抜ける勇敢で無骨な武人の保昌と、恋愛に自由奔放で優秀な歌人の和泉式部は、少しづつ気持ちがすれ違っていったようです。
情熱的だった夫の自分への想いが冷めてきていることに悩んでいたところに、最初の夫・橘道貞との娘・小式部内侍(こしきぶのないし)が亡くなってしまいます。
重なる悲しみの中、和泉式部は京都の貴船神社にある縁結びの社「結社」に詣でました。
和泉式部は、神社の御手洗川に飛び交う蛍を見て
「もの思へば 沢の蛍も我が身より あくがれ出づる魂かとぞ見ゆ」
(あなたを恋しく想っていると、沢を飛び交う蛍が私の体から彷徨いでてきた魂なのではないか…と思う)
という歌を詠みました。すると……
「奥山に たぎりて落つる 滝つ瀬の 玉ちるばかり 物な思ひそ」
(奥山で湧き流れて落ちるこの貴船川の激流が玉となって飛び散るように、そのように激しくものを思うものではない)
という「貴船の神様」と思われる男性の声で返句があったそうです。
この当時は「蛍は亡くなった人の魂」ともいわれていました。
実はその声は、若くして亡くなった為尊親王や敦道親王が、嘆き悲しむ和泉式部に「しっかり生きなさい」と返句で励ましたという説、隠れていた夫の藤原保昌が詠んだという説もあります。
その後、和泉式部の想いが叶って夫の心を取り戻すことができ、以来「結社」は「恋の宮」と称されたそうです。
亡くなる前の情熱的でストレートな想いが伝わる歌
和泉式部の晩年については定かではありませんが、病に伏している際に詠んだ句は『百人一首』にも残されているので有名です。
「あらざらむ この世の外の 思ひ出に今ひとたびの 逢ふこともがな」
(もうすぐ私は死んでしまうと思う。あの世へ持っていく思い出に、せめてもう一度だけお会いしたい)
和泉式部の強い想いがストレートに伝わってきます。
最期、誰にもう一度一目会いたいと強く思ったのか……藤原保昌なのか、数多くの歌を交わし合った敦道親王なのか、人によっていろいろな解釈がありますが、和泉式部の作品の中でも「一番情熱的な愛が伝わってくる歌」といわれています。
京都・誠心院の境内にある宝篋印塔
和泉式部の墓所は、各地にありますが、京都新京極通の寺院・誠心院の境内には「宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
誠心院の寺伝によると
万寿4年(1027年)、上東門院彰子(藤原彰子)が父・藤原道長に勧め、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、「東北院誠心院」としました。寺伝に依りますと、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。
とあります。
境内には、「和泉式部誠心院専意法尼の墓所・宝篋印塔(ほうきょういんとう)」があり、平安から令和になった現代でも、和泉式部の墓前に手を合わせる人は絶えることはないそうです。
美貌と才能に溢れたすぐれた歌人でありながらも恋愛にのめり込み、自分の身を削るように悩み苦しむ和泉式部。
そんな心情や好きな男性に対する情熱的な想いは、現代の女性でも共感できる部分が多いのでしょう。
参考文献:
和泉式部と橘道貞 伊藤博
和泉式部日記と為尊親王 森田兼吉
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