NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも楽しんでいますか?
第43回放送「輝きののちに」では、ヒロインの娘・藤原賢子(南沙良)が若武者の双寿丸(伊藤健太郎)に告白したものの、あえなくふられてしまいました。
実にもったいないですが、辺境で武功を立てる上では恋だの何だの言ってられないので仕方ありませんね。
まぁ双寿丸は創作キャラなので、恐らく刀伊の入寇で討死するのでしょう。
さて、都に残された賢子はずっと双寿丸のことを想い続け……たわけではなく、数々の男性たちと華やかな恋愛絵巻を描くことになります。
有名なところだけでも藤原頼宗(よりむね。道長の次男)・藤原定頼(さだより。藤原公任の嫡男)・源朝任(あさとう。源雅信の孫)らと交際していました。
天性の文才を持ちながらコミュ障気味の陰キャ?だった母・紫式部(藤式部。役名まひろ)とは大違いですね。
もしかしたら、あるいはもしかしなくても、女性にまめだった父・藤原宣孝の血を色濃く受け継いだのでしょう。
今回はそんな藤原賢子(のち大弐三位)と交際していた一人・源朝任を紹介。
果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
誕生から元服まで
源朝任は永祚元年(989年)、源時中(ときなか)の七男として誕生しました。
道長の正室・源倫子(りんし/みちこ/ともこ)の甥に当たります。
母親は藤原安親女(やすちか娘)。兄弟には兄の源済政(なりまさ)・源信時(のぶとき)・源重時(しげとき)・源惟時(これとき)、弟に源経相(のりすけ)・源則孝(のりたか)らがいました。
長保3年(1001年)に13歳で元服。理髪は藤原朝経(あさつね。道長の従甥)、加冠役は藤原道綱(道長異母兄)が務めます。
元服式には公卿7~8名、殿上人10数名が参列。道長の権勢を慮ってのことでしょう。
それだけ道長の恩寵を受けていたことが分かります。
第66代・一条天皇の時代
源朝任は15歳となった長保5年(1003年)に従五位下と叙せられ、侍従(じじゅう)や左衛門佐(さゑもんのすけ)を歴任しました。
寛弘3年(1006年)には18歳で従五位上・少納言となり、寛弘7年(1010年)五位蔵人(ごいのくろうど)として一条天皇に近侍します。
他にも、右近衛少将(うこのゑのしょうしょう)や左近衛権少将(さこのゑのごんのしょうしょう)を歴任しました。
第67代・三条天皇の時代
やがて寛弘8年(1011年)に一条天皇が居貞親王(三条天皇)へ譲位すると、朝任は一度蔵人を免ぜられます。
しかし、翌寛弘9年(1012年)には再び五位蔵人に任じられました。
親道長派の蔵人を三条天皇が疎んだのでしょうが、道長によって再びねじ込まれたのかも知れません。
その後も朝任は順調に昇進。表にまとめてみましょう。
長和2年(1013年)従四位下
長和3年(1014年)右近衛中将
長和5年(1016年)従四位上、正四位下
第68代・後一条天皇の時代
眼病(と道長による圧力)により心身耗弱しきっていた三条天皇は、長和5年(1016年)に敦成親王(後一条天皇)へ譲位。
ついに道長は自分の血を引く幼帝を奉戴し、いよいよ天下の政権を恣(ほしいまま)にしていきます。
源朝任もその余慶に与り、寛仁元年(1017年)に左近衛中将、寛仁3年(1019年)には蔵人頭と補されました。
そして35歳の治安3年(1023年)、参議となり公卿の仲間入りを果たします。
万寿3年(1026年)には右衛門督(うゑもんのかみ)、長元2年(1029年)には検非違使別当(けびいしのべっとう)も兼任。従三位に昇りました。
住んでいた場所から、人々は朝任を二条別当(にじょうのべっとう)・三条別当などと呼んだそうです。
それから5年後、長元7年(1034年)9月16日に46歳で薨去したのでした。
生粋の武官キャリアを歩んだ生涯と言えるでしょう。
源朝任の家族
ここまで源朝任の生涯を駆け足でたどって来ました。
藤原賢子と交際した以外にも、朝任は妻妾を迎えています。
確認されている限りで源朝任の妻は三人。それぞれ子供をもうけているので一覧してみましょう。
【源朝任と妻子たち】
正室?源俊賢女(としかた娘)
→源師良(もろなが/もろよし)
側室?主殿頭貞科(とのものかみ・さだしな娘。姓不詳)
→源有章(ありあきら)
側室?源頼国女(よりくに娘)
→源朝実(あさざね)
※その他、生母不詳の子女たち
・源定長(さだなが)
・定観(じょうかん)
・永尊(えいそん)
・女子(藤原資房室)
・女子(藤原経任室)
終わりに
今回は、藤原賢子の恋人・源朝任についてその生涯をたどってきました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのかしないのか、もし登場するなら誰がキャスティングされるのか、楽しみですね!
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
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