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都市全体が城郭だった?武士の都・鎌倉を守った防御施設「鎌倉七切通し」とは

城郭都市・鎌倉を守る七つの切り通し

画像:切通しイメージ public domain

1185年(文治元年)、源頼朝は弟・義経の追討を目的に、朝廷から国ごとに守護、荘園ごとに地頭を置くことを認めさせた。

さらに1192年(建久3年)、後白河法皇の崩御に伴い征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開く。
ここに、武士による本格的な政権が誕生したのである。

頼朝が本拠とした鎌倉は、もともと平安時代から武士の拠点として知られた地だった。

桓武平氏の嫡流・平直方が居館を構え、その娘が源頼義に嫁いだことから、鎌倉は河内源氏の本拠地となった。

頼義は氏神である八幡宮を由比ガ浜近くに勧請し、これがのちの鶴岡八幡宮となる。

画像:九条兼実(『天子摂関御影』、紙本着色)public domain

鎌倉が武士の都として発展した最大の理由は、その地形にあった。

頼朝とほぼ同時代を生きた関白・九条兼実が、日記『玉葉』で鎌倉を「鎌倉城」と記しているように、鎌倉全体が天然の要塞ともいえる城郭都市だったのだ。

東・西・北の三方を山に囲まれ、南は相模湾に面する鎌倉には、「鎌倉七口」と呼ばれる切通しが設けられ、これを越えなければ街へ入ることはできなかった。

今回は、この鎌倉の軍事防衛を支えた要衝、「鎌倉七切通し」を紹介しよう。

「極楽寺切通し」~新田義貞の軍勢を退けた要害~

画像:極楽寺切通し public domain

坂ノ下から腰越、片瀬へ延びて東海道に通じ、京都と鎌倉を繋ぐ重要な道で、極楽寺を開創した忍性が開いたと伝えられる。

1333年(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めでは、義貞軍が侵入を図ったものの、幕府軍の防備は固く、退けられたと『太平記』に記されている。

「大仏坂切通し」~その壮大さを国木田独歩が絶賛~

画像:大仏坂切通し public domain

鎌倉と梶原、さらに山崎から藤沢へと延びる道で、古くは「深沢切通し」とも呼ばれた。

作家の国木田独歩は、「大仏坂の切通し」をして、「鎌倉の地質にして初めて作り得るといふべきしろもの、左右の絶壁数十間」と、1902年(明治35 年)頃の大仏坂切通しの様子を『鎌倉の裏山』で絶賛している。

「化粧坂」~かつてこの一帯は刑場だった~

画像:化粧坂切通し public domain

源氏山の東麓にある海蔵寺の手前から山に入り、葛原岡へと続く道で、新田義貞は鎌倉攻めにあたり、三手にわけた軍勢の内、一軍を差しむけここで幕府軍を破った。

鎌倉時代、この切通し一帯は刑場で、建武の新政前にここで処刑された後醍醐天皇の近臣・日野俊基を祀る葛原岡神社が鎮座する。

「亀ケ谷坂」~傾斜が激しい急坂の道~

画像:亀ケ谷坂切通し public domain

扇ケ谷と山ノ内を結ぶとともに、「化粧坂」同様、武蔵方面へ通じる道で、『吾妻鏡』によると3代執権北条泰時が、1240年(仁治元年)に悪路だった山ノ内道を整備したとされる。

「亀ケ谷坂」という名は、ここを登ろうとした亀達が、余りの傾斜に皆ひっくり返ったためにそう呼ばれたという。

「朝比奈切通し」~鎌倉幕府の生命線的な拠点~

画像:朝比奈切通し public domain

鎌倉と東京湾(江戸湾)の六浦(横浜市金沢区)を結ぶ道。

交通・戦略上の重要な拠点として、また、江戸湾を経て、安房や上総などからの物資の集散地として鎌倉の「生命線」ともいえる切通しだった。

和田義盛の子・朝比奈義秀が一晩で開いたという伝説があり、鎌倉七口で最も古の雰囲気を伝えている。

「巨福呂(小袋)坂」~鶴岡八幡宮の裏手にある~

画像:巨福呂坂切通し public domain

鶴岡八幡宮の裏参道から西の方角へ向かう道で、北条泰時が1250年(建長2年)に整備し、これにより鎌倉と北鎌倉が結ばれた。

12 基の庚申塔や道祖神などから、江戸時代の末期に改修工事が行われたことがわかり、工事中の事故で命を落とした人々を供養する道造供養塔も残る。

「名越切通し」~鎌倉と三浦の境界だった~

画像:名越切通し public domain

鎌倉から三浦へ通じる道で、鎌倉と三浦の境界をなした切通しだった。

文献上で初めて「名越坂」の文字が確認されるのは『吾妻鏡』の1233年(天福元年)のことで、現在は、鎌倉市と逗子市の境になっていて、名越トンネルの上にかつての切通しの面影が残っている。

今も鎌倉時代さながらの雰囲気を残す「鎌倉七切通し」。

インバウンドで賑わう鎌倉において、どの切通しも静かな雰囲気にあふれているので、史跡散策はもとよりハイキングとして訪ねてみることもおすすめしたい。

※参考文献
鎌倉仏像散歩編集室著 『鎌倉仏像さんぽ』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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