鎌倉時代

元寇の勝因は本当に神風だったのか?調べてみた

元寇
※フビライ・ハーン

史上初めて日本への本格的な侵攻を行ったモンゴル帝国。最盛期のモンゴル帝国に対して、当時の鎌倉幕府はどのように動いたのか?

この戦いは結果的に日本の勝利となったが、神風という台風が日本を救ったという話は有名である。

しかし、本当にそれだけが勝因だったのか調べてみた。

モンゴルからの使者

元寇
※モンゴル帝国

13世紀にモンゴル草原に生まれた英雄チンギス・ハーンが興したモンゴル帝国は、彼の孫である第5代皇帝フビライ・ハーンの治世には、現在のイラクやロシアまでその領土を拡大していた。アジアでは朝鮮半島の高麗を屈服させ、中華圏の南宋や現在のベトナムにも攻め込む勢いだった。

さらにフビライは、日本の鎌倉幕府に国書を送りつける。
内容はモンゴル帝国に対し、日本は事実上の属国になるよう求めてきたのだ。1266年のことである。

当時の鎌倉幕府は、北条家が執権として統治していたが、国際情勢にまで配慮できない状態の幕府はこの国書を黙殺してしまった。執権とは、将軍や皇族などの代役として政治を行う役職だが、この時代では事実上の国家元首といっていい。

フビライは1272年まで4回にわたって使者を派遣したものの、鎌倉幕府の態度が変わらないとみるや、武力による日本屈服を選択した。1274年、高麗駐屯の元軍と高麗軍を主力とする大軍勢が日本を目指して艦船を進めた。

これが、文永の役(ぶんえいのえき)である。

モンゴル軍上陸

元寇
※博多の息の浜に陣を布く日本軍の総大将・少弐景資とその手勢

同年10月、対馬・壱岐を襲い、略奪と殺戮を行った元軍は肥前・松浦半島を襲い、博多湾に姿を現す。
艦船900隻、兵力25,000の大軍であった。すでに元軍襲来を警戒していた幕府側も九州各地から数千の御家人が集められ、鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)、大友頼泰(おおともよりやす)の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた。

10月20日、元軍は博多湾のうちの早良郡(さわらぐん)に襲来。なお、元軍の上陸地点については諸説ある。

元軍に対し、名乗りを上げて一騎打ちを挑んだ武士団が散々に打ち破られたという話が有名だが、実際には少弐資能率いる武士たちが、元軍を待ち伏せて集団で戦闘を行おうとしたことが日本側の資料からわかっている。ただ、当時の武士の戦闘単位が騎乗した主人と徒歩の従者が数名という少人数であり、武士同士も連携して戦うということに慣れていなかった。そのため、乱戦になれば幕府側が苦戦したのは否定できない。

それでも、幕府の武士たちは奮戦し、元軍の報告には「矢が尽きた」と記されていることから、激しい戦いになったことがわかる。元軍は主要武器の矢の残りが少ないこと、副将軍が負傷したことなどを理由に陸から海上の船へ撤収した。総司令官ヒンドゥは被害の多さから撤退を決意して博多湾を後にしたが、暴風が元軍を襲ったのはその帰路のことで、多大な被害が出た。

鎌倉幕府はひとまず、防衛に成功したのである。

フビライの執念

元寇
※『蒙古襲来絵詞』に描かれた建設当時の石築地

元軍は撤退したが、フビライはまだ諦めていなかった。

服属を求める使者を派遣する一方で、第二次侵攻の準備を進めていたのである。1281年1月、準備が整うと侵攻軍に出征を命じた。このとき、すでに元は南宋を征服しており、そこで3,500隻の軍船と10万の兵士からなる江南軍を、さらに高麗からの東路軍4万を編成。先行して東路軍が対馬・壱岐を襲撃したあと、壱岐で江南軍を待った。だが、その到着が遅れたために東路軍のみで博多湾に侵入する。

6月6日、弘安の役(こうあんのえき)の始まりであった。

元軍の侵攻が再びあることを警戒した鎌倉幕府は、博多に石築地(いしついじ/鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防塁で、元寇防塁とも呼ばれる)を築いており、四万の武士で待ち構える。そのため、東路軍は本土に上陸することが出来ず、戦線は後退し、江南軍を待つことになった。しかし、江南軍が到着するまでは3週間がかかり、船内で待機していた兵士は疲弊しきっていたのである。さらに東路軍内で疫病が蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まっていた。

元軍を台風が襲う

元寇
※日本軍と激しい戦闘を繰り広げる元軍

7月27日、江南軍が合流したことにより、元軍は鷹島(九州北西部の伊万里湾口にある島)まで侵攻する。しかし、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。

それでも元軍はなんとか博多湾まで到達したが、7月30日の夜、疲れきり、戦意も低下した元軍を、台風が襲った。それは、東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2か月後のことである。なお、北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3か月もの間、海上に停滞していた元軍にとっては、偶発的な台風ではなかった。

結果、2,000隻が沈み、数万の兵が海に飲まれた。台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという。あまりの被害に元軍は撤退を決意、博多湾から姿を消したのだった。

しかし、多くの軍船が大損害を被ったのとは対照的に、一方で台風の被害を受けなかった部隊もあった。このように部隊によって台風の被害が異なることから、元軍は海域広く散開していたものと思われる。

台風は神風だったのか?


※東方見聞録』に描かれた弘安の役

マルコ・ポーロの『東方見聞録』にも記された弘安の役であったが、主に「神風が吹いた」とされる元寇は第一回侵攻の「文永の役」のことである。

太平洋戦争が勃発すると、日本の戦局が悪化する中、1943年(昭和18年)の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初めて登場した。

神風特別攻撃隊もこの思想から名付けられたと言われている。

しかし、史実どおりならば第二回侵攻である弘安の役のほうが台風の被害は大きい。やはり、「台風=神風」としたのは「困難な局面でも神風が吹けば勝てる」との思想を広めるための後世のこじ付けだったのである。

それよりも、文永の役での教訓を踏まえ、弘安の役に備えた幕府軍と、東路軍の疲弊、江南軍の大幅な遅れ、そして何より本土上陸を許さなかった武士たちの戦いの結果が、日本の勝利の鍵となったのだ。

最後に

日本の武士が初めて異国の兵と本格的な戦いを繰り広げたのが、元寇であった。
鎌倉から遠く離れた博多の地で戦った武士とそれを指揮する幕府。その連携があったからこそ、台風が到来するまで元軍の本格的な上陸を許さなかった。結果、「神風」は戦意高揚のために後の世で創作された話だということが分かった。

(鎌倉幕府については「「いざ鎌倉」という言葉について調べてみた」を参照)

関連記事:
源氏のカリスマで元寇から日本を救った?鎌倉幕府7代将軍・惟康親王の悲劇

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コメント

  1. アバター
    • 匿名
    • 2018年 9月 02日 9:23am

    河野の後ろ築地も取上げて欲しかったなあ
    日本の武士団の奮闘があってこその勝利

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    • アバター
      • 匿名
      • 2020年 1月 13日 9:08pm

      元寇によって当時の日本が大混乱に陥った事は、日本側の様々な文献に明らかです。また蒙古軍の恐ろしさは九州から遠く離れた東北地方にも伝わったそうです。

      鎌倉武士達は善戦しましたが、壱岐・対馬は占領され、大宰府まで上陸され、甚大な被害があったようです。
      ですからこの戦いの勝利は、蒙古側の援軍の遅れや病気の発生等、様々な偶然が重なった結果であり、決して鎌倉武士の実力によるものとは言えないでしょう。

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2020年 12月 31日 1:03pm

    まさに鎌倉武士の実力勝ちですね!
    これはモンゴルによる侵略であると同時に、その
    属国である高麗による侵略であることも忘れてはならな

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