「寛喜の飢饉」とは?
「寛喜の飢饉 : かんきのききん」は、鎌倉時代に起こった最大の飢饉と云われる。
1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)の間に起こり、人口の三割が亡くなったと記されている。
異常気象がその数年前から起こり、大飢饉が起こる前段階で既に農村は困窮状態にあった。
鎌倉幕府歴史書「吾妻鏡」には、夏に現在の岐阜県や埼玉県の一部で雪が降り長雨が続く冷夏だったとの記録がある。そして9月1日に霜が降り、冬の寒さが到来した。
その後、追い打ちを掛けるように洪水の被害で農作物の収穫が壊滅的になった後、暖冬がやってきた。
翌年は酷暑で干ばつになり、前年の飢饉で種もみも食いつくされて作物が植え付け不可能となり、飢饉が収まらぬ連鎖が続いた。
京都や鎌倉には居所を失った民衆が流れ着き、道端には餓死者の死体が多数放置されたという。
また、京都市中の民衆が団結して金持ち宅へ押しかけて飲食した後、銭や米を強制的に借り受けて分配する事件も再三起きた。
1232年(貞永元年)になっても、京都の川原には飢えた人々が溢れていた。
飢えと生活苦から民衆は富豪邸に仕え、或いは止む得ず、妻子や自らを人身売買や質入れする現象が途切れなく発生した。
農民の流失は、農村の荒廃をもたらした。
これは、年貢を徴収する朝廷や鎌倉幕府の財政を揺るがす大問題だった。
1239年(延応元年)幕府は、飢饉時は認めていた人身売買を飢饉以後は禁止する政策を取った。
1230年に始まった「寛喜の飢饉」は、約10年近くの間、社会に影響を与え続けたのである。
日記に記された当時の様子
平安末期から鎌倉初期にかけ、和歌の師匠と仰がれる「百人一首」編集者・藤原定家は『明月記』という日記を残している。
この日記には「寛喜の飢饉」の始まり、1230年の出来事の記載がある。
本来ならば3月下旬から5月上旬頃に見られる麦の穂が11月下旬から1月上旬に出ていたり、12月下旬から2月上旬に蝉が鳴いたなど、前例のない気象異変が多く記されている。
翌年1231年(寛喜3年)の秋には、北陸道(福井県・石川県・富山県・新潟県)と四国に殆ど作物の実りがなく、翌年1232年(貞永元年)夏真っ盛りになると、餓死者の死体腐敗臭が邸まで臭う有様だったという。
また、定家の所有する領地・伊勢国(三重県北中部を中心に愛知県と岐阜県に一部属する)も多くの死者を出し、収入が入ってこなくなった。
藤原定家同様、鎌倉時代の朝廷に仕える貴族・広橋経光の日記「民経記」にも「寛喜の飢饉」のことが記されている。
1212年生まれの経光は、当時18歳だった。
「民経記」には、天皇の御輿担き役が食事を満足に取れず倒れそうになり、警護武士が代わって御輿を担いだ話が載せられている。その際、都大路は死骸が満ち、酷い有様だったという。
このような情勢に対し、執政者達は如何なる対処を行ったのであろうか?
幕府や朝廷は、どのような対策をしたか?
まず、鎌倉幕府の対策から見ていくと、
1. 幕府の備蓄米の放出(種もみを含めた米を利子付きで貸与)
2. 飢饉時の人身売買容認
3. 鎌倉の守護神「鶴岡八幡宮」に豊作年を祈願
などが挙げられる。
時の3代執権・北条泰時は、贅沢を禁じ、毎日の食膳を減らす事を奨励した。
土地と深く結びつき勢力を増してきた御家人や武士達も協力的であった。
飢餓民を救う事は田畑を耕す農民を救う事であり、更に幕府を支える御家人を助ける事に繋がる。
飢餓民が富豪の家に買われた身分になったとしても、飢饉が納まれば状況を変えるチャンスはある。
「目前の状況を見るならば、まず生き延びる事を優先させる」
リアリスト・泰時はこう考えたに違いない。
泰時は富豪や商人らに飢えた人々に米を放出させたり、借金や利子の帳消しを頼んでいる。
それでは朝廷の政策はどうだったのか?
1.牛馬に麦を食わせる事を禁止し、食料の確保に向けさせる
2.飢えた民衆に穀物を施す事を決定
3.米の値段を一定水準に抑える
などの対策を行っている。
しかし飢え死ぬ人間が出ていた時点で1は遅すぎる感があり、2は実際行われたかはハッキリしない。3は米を買うだけの財力がある者向けの政策で、飢餓民を救えるモノではない。
そして人身売買を古来より禁じてきた日本では、朝廷は幕府とは違い「人身売買は許されない」という原則を貫いた。
一方、餓死者が累々と横たわる時節に、競馬に興ずる京都の貴族達が描かれた記録も残っている。
終わりに
「寛喜の飢饉」は、当時の社会を揺るがず大事件だった。
飢饉の地獄絵図は、末法の世(釈迦の死後1500年~2000年後、仏法が衰え、乱れる世の中)を思わせた。
どうにもならない自然の猛威に為す術もなく、朽ちる人々の姿に「他力」を強調せざるを得なかった親鸞上人。座禅で悟りを開く個人救済を押し進めた曹洞宗開祖・道元禅師。
「他力」と「自力」という両極に位置するも、二人が突きつけられた現実は同じだったのでないだろうか。
また、政治面では、「御成敗式目」と呼ばれる最初の武家法成立を促した要因でもある。
飢饉は社会を困窮させるため、争いが多くなり、社会基盤の揺らぎに乗じた悪事も起こる。
鎌倉時代、当事者同士で解決出来ぬ揉め事は幕府へ訴えられ、裁判の形で決着していた。
その裁判の基準に当るのが、「御成敗式目」だった。
つまり「寛喜の飢饉」が露わにした混乱や争いを解決する糸口として「御成敗式目」は生まれたと云える。
参考図書
日本の歴史09「頼朝の天下草創」
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