合戦と言えば天下の大義を掲げ、あるいは一族の存亡を賭けて死に物狂いで臨むもの……とイメージしますが、戦さにも色々あって、時には結構ヒマなこともありました。
もちろん警戒態勢は緩めないものの、あまり緊張しすぎても体力がもちません。という訳で武士たちは色んな退屈しのぎを始めるのですが……。
今回はそんな一人・北条宗教(ほうじょう むねのり)のエピソードを紹介したいと思います。
サイコロ博打の口論が元で……約200人が同士討ち
時は元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の討伐を志す後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代)の命を奉じて兵を挙げた楠木正成(くすのき まさしげ)。
それを討つべく幕府当局は出撃、正成の立て籠もる千早城(ちはやじょう。千剣破城)を包囲しました。
……が、合戦の常識を破る数々の策略によってなかなか攻め落とせず、攻める側はほとほとうんざりしてしまいます。
「どうするんだよ、これ?」
「決め手がないから攻め込めないし、かと言って引き上げるのは沽券に関わる。とりあえず兵糧攻めかねぇ」
包囲して補給路を断てば、そのうち干上がって全滅するだろう……そんな消極的な軍中に、北条宗教は与していました。
北条宗教は名越流(なごえりゅう)北条氏の末裔。第2代執権・北条義時(よしとき)の次男・北条朝時(ともとき)の孫です。
【名越流北条氏・略系図】
北条義時-北条朝時-北条教時-北条宗教-北条時治※『系図纂要』による。
異説では二月騒動(文永9・1272年2月)で第8代執権・北条時宗(ときむね。義時の玄孫)によって父・北条教時(のりとき)ともども討たれたとも言われます。
とりあえずここでは死んでないルートを採用。出家して入道元心(げんしん)と号した宗教は、退屈しのぎに甥(厳密には従兄甥)の北条兵庫助(ひょうごのすけ)をサイコロ博打に誘いました。
「おーい兵庫助。サイコロやろーぜ!」
「いいっすよー!」
……で、後はお察しの通り。勝ったの負けたのイカサマだ何だと騒ぎ始め、口論の末についカッとなって刺し違えてしまったそうです。
「あぁっ、よくも大将をやりやがったな!」
「それはこっちのセリフだ!殿の仇め、覚悟しやがれ!」
さぁ始まりました大乱闘。両家の一族郎党がにわかに斬り合い、たちまちにして200名ばかりが討死してしまいます。
これを城内から見ていた楠木勢いは大笑い。「ざまぁ見ろ。畏れ多くも十善の君(天皇陛下)に逆らったから天罰が当たったんだ!」その後、結局千早城は攻略できず撤退を余儀なくされたのでした。
終わりに
……是より後は弥合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。爰に何なる者か読たりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立たりける。余所にのみ見てやゝみなん葛城のたかまの山の峯の楠軍も無てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける。名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。両人の郎従共、何の意趣もなきに、差違へ差違へ、片時が間に死る者二百余人に及べり。城の中より是を見て、「十善の君に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」とぞ咲ける。誠に是直事に非ず。天魔波旬の所行歟と覚て、浅猿かりし珍事也……
※『太平記』巻第七「四十四 千剣破城軍事」
……いやぁ、古来「小人閑居して不善をなす」とはよく言ったもの。実に散々な結果でした。
ところで、この北条兵庫助なる人物を『系図纂要』で調べたところ、候補に挙がった以下二人(いずれも名越流)が兵庫助を称しています。
北条時家(ときいえ。父は北条公時、祖父は北条時章)
兵庫助従五上 美作守
永仁元年七ノ廿下向鎮西 同三年四ノ帰東 元弘三年扎千早城攻上篤時忿争而死
【意訳】永仁元年(1293年)7月20日に九州へ下り、同3年(1295年)4月に東国へ帰ってきた。元弘3年(1333年)に千早城を攻略中、紛争によって死んだ。
北条貞持(さだもち。父は北条頼章、祖父は同じ)
兵庫助 元弘三年五ノ十七討死
【意訳】元弘3年(1333年)5月17日に討死した。
……これは絶対に時家ですね(ただし兵庫助ではなく格上の兵庫頭とも)。この紛争こそがサイコロ博打の口論に違いありません。
まったく、ロクなもんじゃないですね。平時はもちろんのこと、戦場などここ一番では息抜きもほどほどにして、適切な緊張感を保ち続けたいものです。
※参考文献:
- 『週刊戦乱の日本史33 新説 赤坂・千早城の戦い』小学館ウィークリーブック、2008年9月
- 長谷川端 訳『新編日本古典文学全集54 太平記1 巻第一~巻第十一』小学館、1994年9月
- 飯田忠彦『系図纂要 五十 平氏 五』国立公文書館デジタルアーカイブ
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