北条義時とは
日本初の武家政権・鎌倉幕府は、源氏の棟梁で初代将軍・源頼朝によって開かれ、頼朝(将軍)のことを御家人たちは「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼んだ。
頼朝の死後、鎌倉殿は二代将軍・頼家、三代将軍・実朝へとつながっていく。
その三人の鎌倉殿に仕え、幕府の実権を最終的に掌握したのが、鎌倉幕府二代執権の「北条義時(ほうじょうよしとき)」である。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役として描かれている。
義時は、頼朝の正室で尼将軍として有名な北条政子の弟で、頼朝の死後は父・時政と共に政治家として頭角を現していき、政子と共に鎌倉幕府を盛り立てた人物だ。
しかし、その過程では血で血を洗う権力闘争が繰り広げられていた。その全てに関わっていたのが義時だと言われ「陰険で腹黒い悪人だった」という評価もある。
本当に北条義時は腹黒く悪い人間だったのか? そしていかにして実権を握ったのか?
今回は北条時政と義時の波乱万丈な生涯と真実について、前篇と後編にわたって解説する。
源頼朝との出会い
北条義時は、現在の静岡県伊豆の国市にあたる伊豆国田方郡北条を拠点とした平家の子孫の地方豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の次男として、長寛元年(1163年)に生まれた。
当時の北条氏は伊豆国の在庁官人、いわゆる地方の一役人で小規模な武士団に過ぎなかった。
時政には嫡男・宗時(むねとき)がいたため、義時は江間という土地を与えられ「江間小四郎義時」と称し、北条家の分家扱いだった。
ここでは「義時」と記させていただく。
その後、義時の運命は大きく変化する。
義時の姉・政子が、伊豆に流罪となっていた源氏の棟梁の子・源頼朝と恋に落ちたのである。
政子は頼朝と駆け落ちまでしたため、時政は仕方なく二人の結婚を認めた。これによって北条氏は源氏と姻戚関係になった。
時政がこの結婚を認めた裏には、戦略的な意味合いもあった。
当時、東伊豆の沿岸部を支配していた伊東氏が圧倒的な勢力を誇っていて、時政は「いずれ伊東氏に飲み込まれてしまう」と危惧していた。
たとえ流人であっても名門・源氏の棟梁である頼朝と政子が結婚すれば、いつか北条氏の力になると時政は考えたのだ。
治承4年(1180年)8月17日、頼朝が「平家打倒」を掲げ挙兵すると、義時は父・兄と共に頼朝の軍勢に参加することになった。
しかし石橋山の戦いで大庭景親軍に惨敗し、義時は父と共に何とか逃げ延びるが、敗走の途中で兄・宗時が討死してしまう。
兄を亡くしたことは大きな衝撃だったが、この戦いを生き抜いたことで義時の人生が大きく切り開かれることになる。
やがて義時は、頼朝と共に新たな拠点地に入る。その地こそ鎌倉であった。
義時と頼朝との親密エピソード
頼朝は鎌倉に入ると兵集めに奔走し、地盤を固めていった。
その時の頼朝と義時のあるエピソードが残されている。
頼朝36歳・義時が20歳の時、頼朝が妻の政子が妊娠中に浮気をした。これに腹を立てた時政が勝手に伊豆に帰ってしまい、頼朝はそれに慌てふためいた。
この時、頼朝は時政が帰った以上に「義時が時政と共に鎌倉を出てしまったのではないか」と心配したという。
頼朝は「今、義時がいなくなってしまっては困る」と懸命に義時を探した。
そんな頼朝の気持ちなどを知らなかった義時は、父・時政が伊豆に帰ったことも知らず、いつものように鎌倉の自分の家にいた。
頼朝は義時を呼び出して「義時、よくぞ鎌倉にいてくれた。その忠義があればお前は将来我が子孫を守ってくれるに違いない。恩賞を与えよう。」と言った。
義時は訳も分からず、ただ家にいただけで褒美を貰ったのである。
何もしていないに頼朝の信頼を得た義時は、御家人の中での身分・家子(いえのこ)を与えられたという。
この当時の御家人の身分は、門葉(もんよう)・家子・侍の3つに区分されていた。
門葉は、頼朝と血の繋がった源氏の一門、侍は血縁のない一般的な御家人、家子は御家人の中でも頼朝によって選抜された側近である。義時は頼朝の寝室の警護を任せられた後に家子に抜擢された。
頼朝の家子はいわば「頼朝の親衛隊」であり、相当気に入られていないとなれない地位であった。
当時は男色という関係もあったのだが、義時は頼朝の男色の相手ではなかった。
武家政権の中枢へ
やがて頼朝は鎌倉を中心に勢力を拡大し、平家や奥州・藤原氏を滅亡させ、武士の頂点へと上り詰める。
建久3年(1192年)頼朝は征夷大将軍に任じられる。
これによって一介の田舎武士であった北条氏は、日本初の武家政権の中枢に居並ぶことになった。
この時、頼朝は46歳・義時は30歳だった。
こうして始まった武士の世だったが、建久10年(1199年)1月13日、頼朝が落馬により急死してしまった。
十三人の合議制
二代将軍・頼家が新しい「鎌倉殿」となったが、まだ18歳と若く経験も浅いことから、政治の混乱などの心配の声が上がったため、ある制度が設けられた。
それが「十三人の合議制」である。
十三人の合議制とは、幕府内の有力な御家人が十三人集まって訴訟などに関する会議を開き、決定事項を頼家に上申、頼家が最終的に決断を下すという制度である。
選ばれた十三人のメンバーは、「北条時政・比企能員・梶原景時・三浦義澄・安達盛長・足立遠元・大江広元・中原親能・二階堂行政・八田知家・三好康信・和田義盛」いずれも頼朝を支え、戦や幕政などで目立った活躍をした有力な御家人たちだった。
そんな中で37歳の最年少で選ばれたのが、義時であった。
しかし、義時は平家追討軍に加わったが目立った活躍(武功)はなく、また幕政に深く関与していた訳でもなかった。
何故、義時が十三人の合議制のメンバーに選ばれたのか?
それは義時が頼朝の家子であったことが関係していた。
家子は御家人の中ではかなりのエリートで、義時はその中でも「家子専一」、家子のNo.1であったのだ。
義時がメンバーに選ばれたのには数々の諸説があるが、先代の偉大なる頼朝の家子代表として選ばれた可能性が高いと言われている。
こうして始まった十三人の合議制だったが、すぐにほころびが生じ始める。
まず梶原景時が御家人からの信頼を失い失脚し、更に三浦義澄と安達盛長が相次いで病死した。
十三人の合議制は、始まってから1年ほどで3人のメンバーがいなくなってしまった。
この後、有力御家人同士の血で血を洗う権力闘争が激化していき、十三人の合議制は崩壊の道を辿っていくことになるのである。
北条氏と比企氏との激突
十三人の合議制が崩壊すると「鎌倉殿」の頼家は、比企氏を重用するようになる。
元々、京の都にいた比企氏は長く頼朝に仕えてきた有力御家人で、比企尼は頼朝の乳母で、頼朝が流罪になった時も生活の面倒を見ていた。
その恩を忘れていなかった頼朝は、頼家が生まれるとすぐに比企尼の娘を乳母にし、頼家の養育を任せた。
これによって比企尼の甥・比企能員が幕政で頭角を現すことになり、能員の娘と頼家が結婚し、嫡男・一幡(いちまん)を授かった。
頼家が比企氏を重用するのは当然のことであったのだ。
北条氏は将軍・頼家の母方の外戚という立場にありながら、比企氏に押されて陰が薄くなっていた。
建仁3年(1203年)7月、頼家が病に倒れると、北条時政は「このまま一幡が次の将軍になれば、ますます比企氏が強くなってしまう」と焦り動き出す。
時政はなんと、頼家の病気回復祈願の名目で比企能員を自分の館に呼び出し、殺害してしまったのである。
更に幕府の軍勢に比企氏の館を襲撃させ、比企氏を滅亡させてしまった。(※比企能員の変)
この時に、幕府軍の大将の1人に任じられたのが義時であった。
義時は父の策略に加担し、その後、襲撃から逃れた一幡を討ち取ったという。享年6。
史料によると、義時が自ら一幡を討ち取ったとされている。
一連の陰謀を仕組んだのは父・時政であり、義時は時政の駒の1人として動いただけという説が現在では有力である。
私欲にかられた時政は、更なる謀略を実行する。
それはなんと頼家を将軍職から降ろし、伊豆の修善寺に追放してしまうという荒技であった。
こうして頼家の弟・実朝が、三代将軍、新しい「鎌倉殿」となった。
この時、実朝はわずか12才であった。
時政は将軍・実朝を補佐する幕府の初代・執権に就任し、北条氏(時政)は幕府No.2の地位を得たのである。
その翌年、なんと修善寺にいた頼家が、入浴中に刺客に襲われて殺害されてしまった。
この暗殺も時政の手によるものだとされている。頼家が他の御家人に担がれて北条氏討伐に動かないように先手を打ったというわけである。
時政からすれば頼家は血の繋がった孫である。権力のためには孫を暗殺してしまうほど時政は恐ろしい人物であった。
しかし因果応報、今度は時政が義時に追放されることになるのである。
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