鎌倉殿の13人

大河ドラマではたぶん割愛(涙)北条義時の「四男だけど六郎」な北条有時【鎌倉殿の13人】

北条義時(演:小栗旬)の息子と言えば、八重(演:新垣結衣)との間に生まれた「俺たちの泰時」こと北条泰時(演:坂口健太郎)はじめ、比奈(演:堀田真由。姫の前)との間に授かった北条朝時北条重時(いずれもキャスト不明)。

そして“第3の女”のえ(演:菊池凛子。伊賀の方)との間には、北条政村(まさむら)と北条実義(さねよし。後に実泰と改名)を授かるのですが……もう一人息子がいたことをご存じでしょうか。

彼の名は北条有時(ほうじょう ありとき)。義時の四男として誕生するけど通称は六郎(ろくろう)。果たしてどんな事情があったのか、そもそも母親は誰なのか……今回はそんな有時の生涯をたどって行きたいと思います。

話がややこしくなるため、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではほぼ間違いなく割愛されてしまうであろう有時。だからこそ、この機会に彼の存在を知って頂けたら嬉しいです。

承久の乱で活躍

北条有時は正治元年(1200年)5月25日に生まれました。

有時(幼名不詳)の誕生を喜ぶ女性たち(イメージ)

江間殿妾男子平産云々。爲加持。若宮別當自去夜被坐于彼大倉亭。今朝。羽林被遣御馬。尼御臺所給産衣云々。

※『吾妻鏡』正治2年(1200年)5月25日条

【意訳】義時の側室が無事に男児を出産。若宮別当の昨夜から大蔵御所で加持祈祷をしていた。頼家はお祝いに駿馬を贈り、政子は産着を贈られたとか。

『関東評定衆伝』によると母親は伊佐次郎朝政(いさ じろうともまさ)の娘、側室の子であったため、兄弟での序列は最下位。後から生まれた政村(四郎。元久2・1205年生)・実義(五郎。承元2・1208年生)の後に元服したため六郎と名乗りました。

歴史上の兄弟を見ていると、年上の三郎に年下の次郎などというパターンがあるのは、母親が正室か側室かによって元服順が変えられたため(例外もあります)。令和の現代と違って、18歳になったら一律で成人というわけではなかったのです。

さて、そんな六郎は義時が陸奥守に任じられたため陸奥六郎と呼ばれ、後に陸奥国伊具郡(現:宮城県丸森町・角田市)に所領を得たため伊具流(北条分家)の祖となります。

六郎の初陣は承久3年(1221年)に勃発した後鳥羽上皇(演:尾上松也)との最終決戦「承久の乱」。兄・泰時やその子・北条時氏(ときうじ)らと共に主従19騎で出陣しました。

陰。小雨常灑。夘尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏。弟陸奥六郎有時。又北條五郎。尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從〕。關判官代。平三郎兵衛尉。南條七郎。安東藤内左衛門尉。伊具太郎。岳村次郎兵衛尉。佐久滿太郎。葛山小次郎。勅使河原小三郎。横溝五郎。安藤左近將監。塩河中務丞。内嶋三郎等也……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月22日条

この中に「伊具太郎(いぐ たろう)」という名前が見え、伊具郡を領有する有時と何らかの関係があるのでしょうか。22歳の有時に息子がいたらとても出陣できる年齢ではない筈なので、もしかしたら現地で北条家に仕えていた郎党かも知れません。

激闘を繰り広げる有時たち(イメージ)『承久記絵巻』より

鎌倉を出て東海道を進撃した有時たちは摩免戸の渡し(現:岐阜県各務原市)で官軍と遭遇。果敢に攻めかかったものの、相手は矢も放たずに敗走したということです。

今曉。武藏太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曾沼次郎朝綱。小鹿嶋橘左衛門尉公成。波多野中務次郎經朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞實光等渡摩免戸。官軍不及發矢敗走……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月6日条

やがて勝利を収めた有時らは8月2日に鎌倉へ凱旋。『吾妻鏡』には「黄昏どきに及んで、陸奥六郎有時はじめ上洛していた者たちが帰り着いた」旨が短く記されています。

……及黄昏。陸奥六郎有時以下上洛人々多以下着云々。

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)8月2日条

鎌倉の興廃を賭けた一戦の代表的存在として認識されていたのでしょう。『吾妻鏡』にこそ名前はあまり出ていなかったものの、見えないところで獅子奮迅の大活躍を見せたことと思われます。

大河ドラマへの登場チャンスは?

やがて鎌倉殿・藤原頼経(ふじわら よりつね。当時は幼名の三寅)の親衛隊に抜擢された有時。承久の乱における活躍が認められての人事でしょう。

爲駿河守奉行。撰可祗候近々之仁。被結番。号之近習番。
一番 駿河守 結城七郎兵衛尉 三浦駿河三郎
二番 陸奥四郎 伊賀四郎左衛門尉 宇佐美三郎兵衛尉
三番 陸奥五郎 伊賀六郎右衛門尉 佐々木八郎
四番 陸奥六郎 佐々木右衛門三郎 信濃次郎兵衛尉……(以下、六番まで)

※『吾妻鏡』貞応2年(1223年)10月13日条

【意訳】兄・北条重時の指図によって、親衛隊のシフトが組まれた。
第1班 北条重時・結城朝広・三浦光村
第2班 北条政村・伊賀朝行・宇佐美三郎兵衛
第3班 北条実義・伊賀光重・佐々木信朝
第4班 北条有時・佐々木三郎・信濃次郎……(後略)

御所の警固に励む有時(イメージ)

かつて若き日の義時が源頼朝(演:大泉洋)の寝所を警護するメンバーに抜擢されたのと同じく、とても名誉な役回りだったはず。有時が職務に励んだであろうことは想像に難くありません。

やがて貞応3年(1224年)6月13日に義時が亡くなると、在京していた泰時を除く息子たちは葬儀に参列しました。

霽。戌尅。前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。葬礼事。被仰親職之處辞申。泰貞又稱不帶文書故障。仍知輔朝臣計申之。式部大夫。駿河守。陸奥四郎。同五郎。同六郎。并三浦駿河二郎。及宿老祠候人。少々着服供奉。其外御家人等參會成群。各傷嗟溺涙云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)6月18日条

文中の式部大夫(しきぶのじょう/たいふ)は次男の朝時、駿河守は三男の重時。陸奥四郎は五男の政村、同じく五郎は六男の実義、そして六郎が庶子の有時で(兄弟の中では)序列最下位となります。

義時の死をもって大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は完結と見られますが、もしも今から有時に登場チャンスがあるとするなら、承久の乱と義時の葬儀くらいでしょうか。どうでしょうね。

義時の死後も長兄・泰時を支え続ける

貞永元年 壬辰 七月十日評定衆起請連署閏九月八日暁彗星
(中略)
評定衆
(中略)

駿河守平有時 今年以後無出仕
右京権大夫義時朝臣男母伊佐次郎朝政女 貞応元年十二月廿一日任大炊助 貞永元年六月二十九日叙爵従五位上 罷民部少輔叙之 同十一月廿九日任駿河守 仁治二年六月七日叙正五位下 寛元元年以後依所労不出仕文永七年三月一日出家法名蓮忍 同日卒年七十一

※『関東評定衆伝』より

その後、有時は藤原頼経の側近として仕え続けました。儀式やお出かけに際して供奉した記録が散見され、太刀持ちなどの大役をたびたび務めていることから厚く信頼されていたのでしょう。

貞応元年(1223年)12月21日付で大炊助(おおいのすけ)となり、貞永元年(1232年)6月29日に従五位上・民部少輔へ昇進します。

嘉禎3年(1237年)に従五位上へ上るが民部少輔は辞任。ただし同年11月29日に駿河守を拝命。仁治2年(1241年)には正五位下に昇進しました。

評定衆の一人として幕政に参画(イメージ)

鎌倉幕府のブレーン(宿老十三人合議制の後身)である評定衆となっていたものの、貞永元年(1232年)を最後に参加していません(※今年以後無出仕。『関東評定衆伝』による)。

……今日。駿河守有時雖辞申評定衆。無許容云々。

※『吾妻鏡』仁治2年(1241年)11月30日条

仁治2年(1241年)11月30日には評定衆の辞任を願い出ますが、執権である兄・泰時はこれを許しませんでした。

晴。午刻將軍家入御二所御精進屋。駿河守有時亭也。

※『吾妻鏡』寛元元年(1243年)3月19日条

しかし寛元元年(1243年)3月19日。将軍頼経が二所詣で(伊豆山権現と箱根権現への参拝)に際して精進潔斎する際、邸内に精進屋を提供したのを最後に『吾妻鏡』から姿を消します。

『関東評定衆伝』には「寛元元年以後依所労不出仕」とあり、かねがね身体を悪くしていたことから政界を引退しました。

そして文永7年(1270年)3月1日に出家して蓮忍(れんにん)と号し、同日に亡くなったということです。享年71歳。

終わりに

以上、義時の四男だけど六郎な北条有時の生涯を駆け足でたどって来ました。義時の息子6人中、側室の子は長男の泰時と有時だけ。

長兄・泰時。お互い側室の子同士、有時とは仲がよかった?(イメージ)

長男・泰時……側室・阿波局(実衣とは別の女性。八重姫とするのは大河ドラマの創作)
次男・朝時……正室・姫の前(比奈)
三男・重時……同じく
四男・有時……側室(伊佐朝政の娘)
五男・政村……正室・伊賀の方(のえ)
六男・実泰……同じく(ただし一条実有の娘≒側室との説も)

早くから実績のあった泰時を例外とすると、どうしても側室の子として浮いてしまったであろう有時。でも、偉大な父祖に負けないよう精進して見事に活躍しました。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場しないかも知れませんが(その可能性が濃厚ながら)、どうか有時の存在を思い出して頂けると嬉しいです。

※参考文献:

  • 岡田清一『鎌倉殿と執権北条130年史』角川ソフィア文庫、2021年10月
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版新書、2021年9月
  • 野口実『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』戎光祥出版、2019年9月
角田晶生(つのだ あきお)

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