平安時代

「鎌倉殿の13人」第4回ついに頼朝が挙兵!運命の8月17日を『吾妻鏡』はどう書いた?

北条義時(演:小栗旬)が見出した勝算、文覚(演:市川猿之助)のもたらしたドクロ、そして後白河法皇(演:西田敏行)によって発せられた密旨……。

20年の雌伏を経て、ついに源頼朝(演:大泉洋)が平氏討伐の兵を挙げることとなりました。

挙兵の日時は治承4年(1180年)8月17日と決定、ますます盛り上がりを見せるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人(脚本:三谷幸喜)」。

佐々木経高の放った「矢のゆくえ」は……(イメージ)

劇中ではどのような激闘が演じられるかは放送までのお楽しみとして、実際のところはどうだったのでしょうか。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかゞみ)』には、当日の様子がこれでもかと詳しく書かれています。

今回は頼朝や義時たちにとって運命の分かれ道となった8月17日の挙兵シーンを紹介。読んでいると、手に汗握る思いがすることでしょう。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4~5回の予習も兼ねて、しばしお付き合いいただければと思います。

これ源家、平氏を征する最前の一の箭なり……

それではまず『吾妻鏡』の原文を丸ごと引用しますが、めんどくさいと思う方は下の現代語訳まで一気に読み飛ばしても大丈夫です。

山木兼隆。歌川国芳「頼朝旗起八牧館夜討図」

十七日 丁酉 快晴。三嶋社の神事なり。藤九郎盛長、奉幣の御使として社参し、程なく帰参す。(神事以前なり。)

未の剋、佐々木太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、兄弟四人参著す。定綱・経高は疲馬に駕し、盛綱・高綱は徒行なり。武衛その體を召覧せられ、御感涙しきりに顔面に浮べたまふ。汝等が遅参によって今暁の合戦を遂げず、遺恨万端の由仰せらる。洪水の間、意ならず遅れ留まるの旨、定綱これを謝し申すと云々。

戌の剋、藤九郎盛長が僮僕、釜殿において兼隆が雑色の男を生捕る。ただし仰せによってなり。この男、日来殿内の下女に嫁するの間、夜々参入す。しかるに今夜、勇士等殿中に群集するの儀、先々の形勢に相似ず、定めて推量を加へんかの由、御思慮あるによって、かくのごとしと云々。

しかる間、明日を期すべきにあらず。おのおの早く山木に向ひて雌雄を決すべし。今度の合戦をもって生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる。また合戦の際、まづ火を放つべし。故にその煙を覧んと欲すと云々。士卒すでに競ひ起る。

北條殿申されて云はく、今日は三嶋の神事なり。群参の輩下向するの間、定めて衢に満ちたらんか。よって牛鍬大路を廻らば往反の者のために咎めらるべきの間、蛭嶋融を行くべきかてへれば、武衛報へ仰せられて曰はく、思ふところ然なり。ただし事の草創として閑路を用ゐがたし。はたまた蛭嶋融においては、騎馬の儀叶ふべからず。ただ大道たるべしてへり。

また住吉小大夫昌長(腹巻を著す。)を軍士に添へらる。これ御祈祷を致すによってなり。盛綱・景廉は宿直に候ずべきの由を承りて、御座右に留まる。

しかる後、棘木を北に行き、肥田原に到る。北條殿駕を扣へて、定綱に対して云はく、兼隆が後見堤権守信遠は山木の北方にあり。勝れたる勇士なり。兼隆と同時に誅戮せずんば、事の煩ひあるべきか。おのおの兄弟は信遠を襲ふべし。案内者を付けしむべしと云々。貞綱等領状を申すと云々。

子の剋、牛鍬を東に行き、定綱兄弟は信遠が宅の前の田の頭に留まりをはんぬ。定綱・高綱は案内者(北條殿の雑色、字は源藤太。)を相具して、信遠が宅の後に廻り、経高は前庭に進みて、まづ矢を發つ。これ源家、平氏を征する最前の一の箭なり。

時に明月午に及びて、ほとほと白昼に異ならず。信遠が郎従等、経高の競ひ到るを見て、これを射る。信遠また太刀を取り、坤の方に向ひて、これに立ち逢ふ。経高弓を弃て、太刀を取りて、艮に向ひて相戦ふの間、両方の武勇掲焉なり。経高矢にあたる。その刻、定綱・高綱後面より来り加はりて、信遠を討ち取りをはんぬ。

北條殿以下、兼隆が館の前、天満坂の邊に進みて矢石を發つ。しかるに兼隆が郎従は、多くもって三嶋社の神事を拝せんがために参詣し、その後、黄瀬川宿に到り留まりて逍遥す。しかれども残り留まるところの壮士等、死を争ひて挑み戦ふ。この間、定綱兄弟、信遠を討つの後、これに馳せ加はる。

ここに武衛、軍兵を發するの後、縁に出御し、合戦の事を想はしめたまふ。また放火の煙を見る事能はざるの間、宿直のために留め置かるるところの加藤次景廉・佐々木三郎盛綱・堀藤次親家等を召し、仰せられて云はく、すみやかに山木に赴きて合戦を遂ぐべしと云々。手づから長刀を取りて景廉に賜ひ、兼隆が首を討ちて持参すべきの旨、仰せ含めらると云々。

よっておのおの蛭嶋通の堤に奔り向ふ。三輩皆騎馬に及ばず。盛綱・景廉、厳命に任せてかの館に入り、兼隆が首を獲たり。郎従等も同じく誅戮を免れず。火を室屋に放って、ことごとくもって焼失す。

すでに暁天、帰参の士卒等、庭上に群居す。武衛、縁において兼隆主従の頸を覧ると云々。

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月17日条

※原文は改行なしですが、読みにくいため適宜改行しています。

『吾妻鏡』現代語に意訳

8月17日、快晴。三嶋大社の神事(じんじ)がある。藤九郎(安達盛長)が御幣を奉納する使者として参拝し、間もなく戻ってきた。

未の剋(12:00~16:00ごろ)になって佐々木四兄弟(太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱)が到着。太郎定綱と次郎経高の馬はくたびれ、三郎盛綱と四郎高綱にいたっては馬もなく徒歩だった。

武衛(頼朝)はボロボロになってまで駆けつけてくれた四兄弟の姿を見て、感動の涙を流した。が、

「お前たちが遅れたから、本当は今日の早朝に予定していた合戦(山木兼隆らの襲撃)が出来なかった。誠に残念でならない」と文句をこぼす。

定綱たちは「すみません、道中で洪水に遭ってしまって、心ならずも遅れてしまったのです」と謝ったとか。

犬の剋(18:00~22:00ごろ)になって、藤九郎の童僕が釜殿(かなへどの。湯を沸かす場所)で山木兼隆の下男を生け捕りにした。

この下男は頼朝に仕える下女と懇ろになり、夜這いに来ていたのである。せっかくなので山木兼隆の情勢について訊問したところ「今夜はいつになく勇士が集まっている」とのこと。

襲撃すべきか考えてはみたものの、やはり「明日に延ばすべきではない」と決断。

頼朝「早く山木を襲撃して雌雄を決すべし。この一戦が生涯の吉凶を占うつもりでかかれ」

加えて「襲撃に際しては真っ先に放火し、その煙を挙兵の狼煙としたい」との言葉にみんな競って奮起した。

いざ出撃に際して、北条時政が進言するには

「今日は三嶋明神のお祭りだから、大勢の参拝客が押しかけて牛鍬大路(うしくはおほじ)は人でごった返すでしょう。なので、裏道に蛭嶋融(ひるがしまどおり)を通っていきましょう」

ただ大道たるべし(イメージ)

しかし武衛は「それも一理あるが、天下に名乗りを上げようとする者がコソコソするのはみっともない。裏道は狭くて騎馬ではいけないし、ここは堂々とメインストリートを行くのだ」と全軍を叱咤激励。

また祈祷師として住吉小大夫昌長(すみよし こだゆうまさなが)を従軍させ、佐々木三郎盛綱と加藤次景廉は頼朝の身辺を警護させるために残した。

そして棘木を北に進んで肥田原へ至った。北条時政が佐々木太郎定綱に言うには

「兼隆の後見人である堤権守信遠は山木の北方に住んでおり、すぐれた勇者である。兼隆と同時に殺しておかないと、後々面倒なことになろう。佐々木殿ら兄弟は堤信遠を襲撃して欲しい。案内者(あないじゃ)をつけるから」

定綱たちはこれを承知。子の剋(22:00~翌02:00)になって牛鍬大路を東へ進み、佐々木兄弟は信遠の屋敷前に到着。田んぼの陰に隠れて合図を待つ。

太郎定綱と四郎高綱は源藤太(げんのとうた。案内者。時政の下男)の先導で屋敷の裏手へ回り、ついに次郎経高が矢を放った。これが源氏による平氏討伐の第一撃となった。

このとき月は午(うま。真南)の方角にあって昼間のように明るく輝いている。一斉に攻めかかる佐々木兄弟らを見て、信遠の郎従たちは矢を射かけて応戦。

信遠も太刀をとって坤(ひつじさる。南西)の方角から攻め込んできた経高に挑む。経高は弓を捨てて抜刀、艮(うしとら。北東)に向かって信遠と一騎討ちを演じた。

両者の武勇は伯仲していたが経高に矢が当たり、形勢有利となった信遠が経高を仕留めるべく襲いかかる。

しかしその背後から太郎定綱と四郎高綱が襲いかかり、兄弟の連係プレーで見事に信遠を討ち取ったのであった。

一方そのころ、北条時政らは山木兼隆の屋敷に到着。まずは矢を射かけて石を投げつけ、攻撃を開始。

対する山木の郎従たちはその多くが三嶋明神のお祭りに出かけ、二次会とばかり黄瀬川宿(現:静岡県沼津市か)に泊まって不在だった。

それでもまだまだ多くの壮士らが待機しており、いずれも死を恐れず抵抗してきた。激闘を繰り広げていたところへ、すでに信遠を討ち取った佐々木兄弟が駆けつける。

さて、北条の館で合戦の行く末を案じていた頼朝は居ても立っても居られず縁側に出るが、山木屋敷から火の手が上がった様子は見られない。

御厩舎人(みうまやどねり。馬屋番)の江太新平次(えだ しんへいじ)を木に登らせて確かめさせるが、それでも煙すら見えない。

もはやイライラも絶頂に達したか、頼朝は身辺警護に待機させていた加藤次景廉・佐々木三郎盛綱・堀藤次親家(ほり とうじちかいえ)の三名も現場に急行させる。

『頼朝一代記絵巻』より、頼朝公より長刀を授かる景廉

「これで兼隆の首を討って持って来い!」

そう言って頼朝は景廉に手づから長刀を与え、三名は馬にも乗らず駆け出していく。

果たして山木兼隆を討ち取って合戦に勝利し、その郎従らもことごとく討ち取られた。屋敷も火を放たれ、ことごとく焼け落ちる。

すでに夜は明けて、凱旋してきた者たちが頼朝の待つ庭へ集合。ここにようやく安心した頼朝は、兼隆らの首級を検分したのであった。

第4回「矢のゆくえ」やいかに

……はい、お疲れ様でした。原文から目を通された方は特に。手に汗を握るような情景が目に浮かんで来ましたよね(ね?)。

本当は8月17日の早朝に計画していた山木兼隆の襲撃が、武器や兵員を集めに行くと一度帰った佐々木兄弟を待っていたために遅れてしまいます。

昼過ぎに佐々木兄弟が到着するまで「遅い、アイツら何をやっているんだ!」「もしかして、裏切ったか……?」などと焦ったり、いざボロボロになった彼らが到着すれば「よく来てくれた~!」と涙を流したり。

また、山木襲撃(※堤信遠の襲撃については、北条時政が現場判断で手分けした?)の成否を案じてイライラし、ついには八つ当たりがてら宿直(とのゐ)の三名も現場に派遣。

山木兼隆を討ち取る加藤次景廉。月岡芳年「月百姿 山木館の月」

もし勝負が更に長引いたなら、頼朝自身が現場へ駆け出していたかも知れません。

およそ総大将というものは部下を信じてドッカと構えていなければなりませんが、ここに頼朝の将器に乏しかったことが窺われます。

とは言うものの、結果を知っている後世の私たちからは想像もつかないほどのプレッシャーと闘っていた頼朝を笑うことなど出来ません。

むしろ情けなく頼りない、しかし人間味あふれる頼朝だったからこそ、御家人たちも「俺たちが支えなくては!」と奮起したのではないでしょうか。

我らが鎌倉殿を、天下人にお育て申し上げる……NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」これからますます盛り上がります。

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※参考文献:

  • 貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第一巻』新人物往来社、1979年8月

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角田晶生(つのだ あきお)

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