北条時政後妻・牧の方の素性とは?
鎌倉殿の13人において、宮沢りえが演じる北条時政の後妻・牧の方とは、どんな素性だったのか。
牧氏は、駿河国駿河郡大岡牧(静岡県沼寿市)の開発領主だった。
大岡牧は以下の経過を辿り、所有名義や土地管理者を変えていった。
平氏に土地を寄進 → 所有名義「後白河法皇」で「平頼盛」領主 → 頼盛死後に所有名義「皇族・八条院」で「平賀朝雅」領主 → 北条時政に管理支配委託
平安から鎌倉時代にかけての歌人・藤原定家の日記「明月記」には、牧氏を(大岡)備前守藤時親と記した文があるので、藤原姓とする意見もある。
鎌倉時代初期の史論書「愚管抄」には、牧氏は平清盛の異母弟・頼盛に仕えた家来と記録されている。
1159年(平治元年)に起こった平治の乱で、源頼朝が平氏側に捕らえられた時、清盛に頼朝助命を願った「池禅尼」が頼盛の母にあたる。
池禅尼は、清盛の父・忠盛の正室で、清盛の継母にあたり、75代崇徳・77代後白河天皇二人の母「待賢門院」の側近家・出身とされる。
牧の方の父は池禅尼の兄弟と云われ、牧の方は「池禅尼の姪」であったという説もある。
池禅尼の姪説が正しいとすれば、三代将軍・源実朝の正室を都(京都)から迎える時も朝廷に伝手があり、牧の方は何らかの役割を果たしたと考えられる。
牧氏事件とは?
「牧氏事件」とは、どのような事件だったのだろうか?
1205年(元久2年)北条時政と牧の方は三代将軍・源実朝を退位させようと企てた。
新将軍に、牧の方の娘婿・平賀朝雅を立てようとしたのである。
彼は源氏血筋に属し、頼朝の猶子(相続無しの養子)となっていた。
家系図は以下の通りである。
源頼家(頼朝の祖先)弟・源義光 → 平賀盛義 → 義信 → 朝雅
平賀姓を名乗ってはいるが、血脈を辿れば、頼朝の祖先・兄弟に行き着く。
時政夫婦は三代将軍・実朝を害しようと目論んだが、北条政子や義時に察知され、有力御家人・三浦義村らの助けにより、実朝は時政の屋敷より連れ出されて義時宅へ避難した。
その後、時政側についていた御家人も次々と寝返り、味方は居なくなった。
企ての失敗を悟った時政夫婦は出家を決意し、翌日には鎌倉から追い出され、伊豆国(静岡県三島市)へ隠居を促される。
同月、幕府の命令で京都在中の武士たちが京都守護職・平賀朝雅を殺害し、この事件の幕は閉じた。
これ以降、北条時政は鎌倉幕府へ復帰することなく、故郷の伊豆で建保3年(1215年)に亡くなった。(享年78)
北条氏が編纂した「吾妻鏡」では、北条時政を少しでも庇うためか、牧の方を事件の首謀者として仕立てたい意向が見える。
しかし他の歴史書では記述が異なっている。
例えば「愚管抄」では時政は主犯格として扱われており、作者不明の「北条九代記」も同様である。
時政の上昇する権力願望は、結局は身内によって潰される形となった。
牧氏事件の背景とは?
牧氏事件の背景には二つの問題が絡んでいる。
1. 「畠山重忠の乱」における時政と義時の対立
2. 北条政範・急死で浮上した後継者問題
1は、1205年(元久2年)有力御家人・畠山重忠が、時政に反逆を疑われ討たれた事件である。
義時は友であり縁戚に繋がる重忠の反逆に疑いを持ち、彼を擁護しようとした。
しかしこの時は強引に事を進める父・時政の命令に逆らえず従ったが、わだかまりは残った。
2は、時政の後継者が牧の方が産んだ政範となり、分家・江間氏を起こした義時の思惑である。
義時は時政の子ではあったが、庶家・江間家を継がせられており「吾妻鏡」においても「江間小四郎」と記述されているケースが多い。
妻の家柄で正室が決定される当時の慣習から、牧の方の息子が跡取りになるのは自然な流れであった。
そんな中、政範が早死したことで、義時が自分こそが北条家の後継者と思うことも当然の流れである。
ところが時政は、分家した義時を今更後継者にするつもりはなく、義時の正室「姫の前」が産んだ次男・朝時を跡取に据える動きがあった。
家督相続を巡る親子間の不信も「牧氏事件」の裏にうごめく原因と考えられる。
北条時政と牧の方追放は、どんな影響を与えたか?
時政・牧の方が追放されたことによって、北条義時にもたらされた恩恵は大きかった。
分家・江間氏から正式に北条家当主に就く
時政の持つ権力を受け継ぎ、御家人筆頭になる
「吾妻鏡」は、1205年(元久2年)義時の執権就任を記している。
義時は、父・時政の権力独占が御家人たちの反感を買った事を重々承知しており。頼朝の側近だった大江広元や安達盛長の嫡子・景盛らと協力しながら幕政を運営する方法を取った。
北条政子は表立って活動する機会が増え、次の二つの行動を起こした。
1. 二代将軍・頼家の子息たち(次男・公暁、三男、四男)の出家
2. 三代将軍・実朝後の後継者探し
1は、頼家の子息を守る措置ではあったが、後々報われぬ結果となる。
2は、病弱で正室に子をない実朝の後を見越した動きである。
「愚管抄」では、後鳥羽上皇(82代天皇・院政を行う)の乳母・藤原兼子と数回会見し、将軍の後継者を相談したと記されている。
当時、兼子は後鳥羽上皇の意志を取り纏め、比類なき権力を握っており、政子は彼女に後鳥羽上皇の皇子を次期将軍として打診したのである。
「牧氏事件」以降、北条政子と義時は、主体的に政治に関わるようになっていく。
終わりに
鎌倉時代初期は、争乱が絶えない。
特に頼朝の死後、有力御家人たちの権力闘争は一気に激しくなる。
頼朝は圧倒的権力で、御家人たちの上に君臨した。
名門出や源氏血筋・兄弟さえも、自身の権力を侵す存在は容赦しなかった。
無慈悲で冷酷な部分が御家人たちに恐怖を抱かせ、闘争を抑える役割を果たしていた。
しかも、彼の本領は朝廷を相手にした時こそさらに発揮された。
仮に北条時政と牧の方が実朝を亡き者にして平賀朝雅を将軍にさせても、朝廷の傀儡政権となったに違いない。
それでは坂東武者の悲願は潰え、時代は逆行してしまっただろう。
こうして幾つも武門の血が流れた後にようやく悲願は成就され、鎌倉は都から独立するのである。
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