鎌倉殿の13人

月食が深めた二人の絆。源実朝を大歓迎する北条義時のエピソード【鎌倉殿の13人】

令和4年(2022年)11月8日(火)の皆既月食、皆さんも観ましたか?赤黒く夜空に浮かぶ円月が、深く心に残ったことでしょう。

今回は同時に天王星食(天王星が月に隠れる現象)も起こり、これは天正8年(1580年)7月26日以来、実に442年ぶりとのこと。戦国時代の人々も珍しい天体ショーを観たのかも知れませんね。

イメージ(今回の月食ではありません)

さて、月食と言えば鎌倉時代の武士たちも観賞しており、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にもこんなエピソードが記されています。

時は元久元年(1204年)9月14日、鎌倉殿・源実朝(みなもとの さねとも)が北条義時(ほうじょう よしとき)の館へ遊びに行きました。

どうかごゆるりと……実朝を引き留める義時

「叔父上(義時)、こんばんは。ちょっと遊びに来ましたよ」

夜更けに思い立って実朝が顔を出すと、義時は大層喜びます。

「これは鎌倉殿、ようこそおいで下さいました。どうかごゆるりとお過ごしあそばせ」

歓迎を受けて楽しく過ごした実朝でしたが、もともと気まぐれに顔を出しただけ。程なく帰ろうとしたところ、義時はせっかくだからと引き止めました。

「ちょうど今夜は月食にございますれば、当家自慢の名月をどうか心ゆくまでご堪能あれ」

「ま、まぁそこまで言ってくれるなら、もう少しだけ……」

実朝の訪問にウキウキ(そうは見えないけど)な義時(イメージ)守川周重「星月夜見聞実記 鎌倉営中の場」

当家自慢の名月って何やねん。月なら大体どこでも見られるんちゃうんかい……なんて野暮は思っても言わず、実朝は義時につき合います。

その時、実朝のお付きとして来ていた二階堂行光(にかいどう ゆきみつ。二階堂行政の子)が昔話しを始めました。

行光「……今は昔し、藤原師実(ふじわらの もろざね)が大閤(たいこう。関白を引退した者の称号。太閤)だったころ。白河院(しらかわいん。第72代)が宇治へ遊びに行かれました。そのとき実に去りがたく、院はお泊まりになりたかったのですが、翌日は北の方角へ移動することが禁忌とされる日のめぐりでした。なので今日中に帰らねばなりません。師実が残念がっていると、藤原行家(ゆきいえ)が妙案を出したのです」

行家が持ち出したのは、喜撰法師(きせんほうし)の有名な和歌。

わが庵は 都の巽 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり
※『古今和歌集』より

【意訳】我が家は都から巽(たつみ。辰巳すなわち南東)の方角にあり、確かに鹿と住んでいる。私が世を憂うあまり、ここは宇治山(うじやま。憂じ山)と呼ばれるようになったのだ。

行光「ここは宇治ですから、都の辰巳に当たります。だから帰りは乾(いぬい。戌亥すなわち北西)の方角なので、明日の帰りでも方忌を冒さずにすむのです……見事な解釈によって白河院はその日、宇治に泊まれたのでした」
めでたしめでたし。

ちなみに、この出来事があった厳密な日時は分かりませんが、藤原師実が大閤だった時期(関白辞任後)と、白河院の(天皇陛下としての)在位期間を比較すればおおむねの時期を割り出せます。

【藤原師実が関白であった時期】
承保2年(1075年)10月13日~応徳3年(1086年)11月26日
寛治4年(1090年)12月10日~寛治8年(1094年)3月8日

【白河院の在位期間】
延久4年(1073年)12月8日~応徳3年(1086年)11月26日

白河「院」と書かれているため在位中ではなく、譲位後のこと。まとめると師実が関白を辞して再任するまでの期間か、二度目の関白も辞してから亡くなるまでの期間(※)の出来事でしょう。

(※)応徳3年(1186年)11月27日~寛治4年(1090年)12月9日か、寛治8年(1094年)3月9日以降。

「今夜は泊まりか。然らばゆっくりと……」する藤原師実(イメージ)

行光「……とまぁそんなことがあったのです。今夜の月食も、天のお計らいかも知れませんよ」

ちょっとこじつけっぽ過ぎる気がするものの、とにかく「今夜は帰らなくていいんじゃない?」というシグナルを受け取った実朝は、一晩泊まっていくことにしたのでした。

(あまり月食は関係ないようですが、とにかく実朝が泊まってさえくれれば、何でもよかったのでしょう)

終わりに

霽。將軍家去夜白地入御相州御亭。即欲有還御處。亭主奉抑留給。今夜依爲月蝕。不意亦御逗留。亭主殊入興給。其間。行光候座。申云。京極大閤〔師實〕御時。白河院御幸于宇治。擬有還御。餘興不盡之間。猶被申御逗留。而明日有還御者。自宇治洛陽當于北。可有方忌之憚云々。殿下御遺恨甚之處。行家朝臣引喜撰法師詠歌。今宇治非都南。爲巽之由申之。因茲。其日被止還御云々。今夕月蝕。尤天之所令然也云々。相州殊御感云々。

※『吾妻鏡』元久元年(1204年)9月15日条
※文中「去夜(さんぬるよる。昨晩)」とあるので、エピソードは9月14日の夜となります。

実朝のお泊まりとなって、さぁ義時の喜ぶまいことか……以上が『吾妻鏡』の伝える月食エピソード。やがて政治的に対立を深める両者ですが、少なくともこの頃の義時は実朝が大好きだったことがよくわかりますね。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではほとんど描かれなかった、鎌倉殿と御家人たちの絆を深めるエピソード。『吾妻鏡』にはたくさん載っているので、読んでみると大河ドラマ鑑賞にもより深みが出てくることでしょう。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 北条義時とは 〜北条得宗家を作った「鎌倉殿の13人」の覇者
  2. 和田義盛はなぜ、北条義時に滅ぼされたのか?
  3. 最期は自分の顔面を…公暁に仕えた稚児・駒若丸(三浦光村)の過激な…
  4. 二刀流で一騎討ち!『平家物語』が伝える「死神」源行家の意外な武勇…
  5. 誠意を見せろ!部下の不祥事を詫びるため、源頼朝が梶原景時に命じた…
  6. ねぇ、空気読も?北条義時の喪明けを一人で勝手に行なった北条朝時【…
  7. 夢はでっかく美濃・尾張!頼朝の父・源義朝を闇討ちした長田忠致の末…
  8. 【暗殺に次ぐ暗殺で権力を得た腹黒親子】 北条時政と義時 ~後編

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【美人すぎて敵将も虜に】イタリアの女傑カテリーナ 「子はここからいくらでも産めるわ」

文化が花開き、多くの都市国家や小君主国が乱立していたルネサンス期のイタリアにおいて、その美貌と冷…

誕生日石&花【01月01日~10日】

他の日はこちらから 誕生日石&花【365日】【1月1日】物腰やわらかく温厚。社交的で誠実な、…

戦国美人三姉妹の次女・お初の生涯 「浅井と織田の血を絶やさぬよう奔走」

お初とはお初(おはつ)は戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に生まれた、浅井…

【火星の夜空は緑色だった】 欧州宇宙機関がその理由を突き止める

「火星の空が緑色に輝いている」欧州宇宙機関(以降ESA)が、火星を周回する探査機「エ…

【安達ヶ原の鬼婆伝説】 鬼婆が妊婦の腹を引き裂くと…「自分の娘と孫だった」

日本各地に伝わる「鬼婆」伝説は、昔から多くの人々に語り継がれています。鬼のような恐ろしい顔つ…

アーカイブ

PAGE TOP