鎌倉殿の13人

二刀流で一騎討ち!『平家物語』が伝える「死神」源行家の意外な武勇伝【鎌倉殿の13人】

以仁王(もちひとおう)の令旨を各地の源氏残党に届けて回り、平家打倒の狼煙を上げる大きな役割を担った源行家(みなもとの ゆきいえ。新宮十郎)。

しかし自ら源氏の棟梁となる野心のため、一族の者たちを次々と破滅へ追いやってしまいました。

源義円(ぎえん)、源義仲(よしなか)、源義経(よしつね)……あまりの死神ぶりに源頼朝(よりとも)は彼を「獅子身中(しししんちゅう)の虫=寄生虫」とまで呼ばわります。

源行家(中央人物)。『平家物語絵巻』より

人を誑し込むのは巧みでも、合戦となるとてんでダメ……しかし武士としての資質に全く欠けるかと言えばそうでもなく、ひとかどの武勇は備えていたとか。

ちょっと意外なようですが、今回は『延慶本 平家物語』より、行家の意外な武勇伝を一つ紹介したいと思います。

僧兵・常陸房昌明に立ち向かう行家

時は文治2年(1186年)5月11日、行家は都落ちした源義経を見限って別行動をとり、古巣の熊野を目指しておりました。

行家は郎党を一人連れていましたが、彼は足が悪いため、なかなか思うように進めません。

「よし、今日はあそこに泊めてもらおう」

家主は快く行家主従を迎え入れたものの、実はこれが罠でして、こっそり追手に通報されてしまいます。

即座に踏み込んできたのは僧兵の常陸房昌明(ひたちぼう しょうめい。常陸坊昌命)。鎌倉の命を受けてやってきました。

「新宮十郎は、ここか!」

しかしこういう時は鼻の利く行家は既に脱出しており、家の中はもぬけの殻。

行家を捜し回る昌明(イメージ)

「この野郎、どこにいやがる!」

昌明は米籠をぶち壊して床板を引っぺがし、挙句は天井を掻き落とすなど、人が隠れられそうなところは片っ端から破壊。ここまでしても見つからないので、表を歩いている百姓女をとっ捕まえて訊問しました。

「やい、この辺りで怪しいヤツを見なかったか。隠し立てすれば首を刎ねるぞ!」

女は昌明が恐ろしく、また別に行家を匿う義理もなかったため主従の逃げ込んだ家を示します。

「新宮十郎、観念せぇ!」

昌明が今度こそと殴り込めば、勝色(かちんいろ、濃い藍色)の直垂と小袴姿の四十男がおり、一目散に逃げだしました。

「この野郎、逃げるんじゃねぇ!」

すぐさま追い駆けた昌明ですが、行家は家の奥から声をかけます。

「そんな下郎に構うでない、新宮十郎はここにおるぞ!」

「おう、討たいでか!」

意気込んで馳せ戻ってきた昌明のいでたちは、黒革縅の腹巻に左右の籠手、三枚兜(錣が三段)をかぶって佩いたる太刀は三尺五寸(刃渡り約106センチ)。

二刀流で立ち向かう行家(イメージ)

対する行家は白い直垂と小袴、打烏帽子を引き立てて決死の覚悟。右手には三尺一寸(刃渡り約94センチ)の太刀、左手には黄金造の太刀を構えた二刀流です。

黄金造の太刀には握り手を保護する鍔がなく、長刀のようにも見えますが、鍔は信仰する熊野権現へ奉納したのだとか。

かくして、ここに両雄の一騎討ちが幕を開けたのでした。

二刀流を巧みに使いこなして善戦

二刀流と聞くと、相手が刀一振りに対して有利かと思いきや、片手ずつそれぞれ刀を使いこなすのは実に大変。片方にのみ意識が行ってしまうと、もう片手がおろそかになって隙が生じてしまうのです。

しかし行家は両刀を巧みに使いこなし、右手の太刀で昌明の斬撃を受けあるいは払い、左手の太刀で鎧の隙間を狙って刺突を繰り出しました。

もちろん昌明も十分に警戒しており、刺突の都度跳び退くものの、それがために十分な踏み込みが出来ません。

打っては受けられ、跳び退いて刺突をかわし、の繰り返し。血の気が多い昌明は苛立ってきました。

「この野郎、ちょこまかと……!」

一方の行家もさすがに疲れてきたのか、後ずさりして塗籠(ぬりごめ。壁を土や漆喰で塗った部屋)の中へ逃げ込みます。

「バカめ、袋のネズミじゃ!」

ここで一気に勝負をつけたい昌明が行家を追って駆け込むと、すかさず小太刀の突きを左太腿に食らってしまいました。

昌明の左腿を突く行家(イメージ)

「痛でぇ!」

狭い個室では三尺五寸の太刀を振り回すこともままならず、このままではチクチクと刺殺されてしまいます。

「卑怯者め、表へ出て勝負しやがれ!」

「ならばそなたから先に出ろ」

左足を引きずるように昌明は跳び退いて部屋から脱出。続いて出た行家が斬りかかり、太刀での斬組みが再開されました。

このままでは埒が明かない……昌明は自分の太刀を行家に投げつけ、組討ち(徒手格闘)を挑みます。

「得たり、応!」

さぁ始まりました殴るの蹴るのくんずほぐれつ……互いに一歩も退かず、上になり下になりしているところへやって来たのは、北条時定(ほうじょう ときさだ。平六、時政の弟か)の郎党「おほげんじむねやす(大源寺?宗康?)」なる者。

彼は大きな石を持ってきて、昌明と組み合っている行家の額をかち割ったのです。これには流石の行家もたまらず、勝負は昌明に軍配が上がります。

「おのれ下郎め、武士ならば刀で勝負を決するべきところを、石礫(つぶて)で殴るヤツがどこにあるか」

「やかましい。戦さに卑怯もへったくれもあるもんか。むねやす、足を縛れ」

「へい」

こうして行家は生け捕られてしまったのでした。

戦い終わって日が暮れて

「そなたは鎌倉の刺客か、それとも北条の手先か」

縛られた行家は、昌明に訊ねます。

「拙僧は鎌倉殿より追捕の命を受けた常陸房昌明と申す」

「左様か、時に、我が手並みはいかほどであったか」

行家の質問に、顔をしかめて昌明は答えました。

「これまで多くの悪僧らと戦ってきたが、貴殿の繰り出す太刀筋ほどエグい攻め方をする者はおらなんだのぅ。こと左手からの刺突はもう鬱陶しくて敵わん……して、この左腿の落とし前はどうつけてくれようか?」

むねやすに手当させた左腿をこれ見よがしに示す昌明に対して、行家は悪びれることなく返します。

「こんな状態でそんなことを言われても、縛られておるのだからどうしようもなかろう」

「しかしまぁ、この太刀を見られよ」

昌明が拾い集めた三振りの太刀はいずれもボロボロ、多いものでは42カ所もの打疵が入っていました。

激しい戦いであった(イメージ)

「いやぁ、こんなに打ち合ったのか。お互いに大したものじゃのぅ」

「まったく往生際の悪さに呆れるばかりじゃが、ところで貴殿は何ゆえ鎌倉殿を害そうとなされたのか」

「……今さらそれを言って何とする。思っていようがいまいが、どのみち斬るつもりじゃろう。さっさと首を刎ねて、三郎(頼朝)めに見せてやれ」

「まぁ、そう言わずに少し食えよ。縄もいっとき解いてやろう」

昌明は懐中より糒(ほしいい。保存食)を取出し、水でもどして行家に勧めます。土器(かわらけ)を受け取った行家でしたが、かち割られた額の傷から流血し、それが入ったために捨ててしまいました。

「何だよ、血ぃくらいでもったいない。武士のくせに」

捨てられた糒を昌明は拾い集めて食い、その晩は江口の長者に泊めてもらったのでした。

エピローグ

翌日、京都を目指して出発すると、正午(午の刻)ごろに北条時定の軍勢50騎ばかりと合流します。

「待て、院宣により京都洛中へ入ること罷りならぬ。この場で首を刎ねてしまえ」

かくして文治2年(1186年)5月12日、行家は昌明によって斬首され、その首級は鎌倉へ届けられました。

届けられた行家の首級(イメージ)

「そなたの働き、まこと神妙(しんびょう)なり」

さぁ大手柄にどれほどの懸賞(けんじょう。恩賞)に与れるかと期待した昌明でしたが、下されたのは下総国葛西(現:東京都東部)への配流。

「え……?」

命じられた通りに任務を遂行、手傷まで負いながら成功させたと言うのにどういうことでしょうか。賞せられこそすれ、罰せられる筋合いではありません。

「沙汰を待て」

頼朝の真意が解らぬ昌明は、二年の歳月を経て鎌倉へと呼び戻されました。

「いかにわ僧、わびしとおもひつらむな。げらふの身にてたいしやうたる者をうちつるは、みやうがのなき時に、わそうのみやうがの為にながしつかはしたりつる也」
※『延慶本 平家物語』より

【意訳】和僧(わそう。僧侶に対する二人称)よ、さぞ侘しかったろうが恨むでないぞ。身分の低い者が大将を討つと、討たれた大将の悲運がその身に降りかかるものだ。それを打ち消すためにこそ和僧を(表向きだけの)流罪に処したのだ。

だったら最初からそう言えばいいのに……ともあれ行家の悲運を精算できた昌明は、恩賞として摂津国土室荘(現:大阪府高槻市)と但馬国太田荘(現:兵庫県豊岡市)に所領を賜ったということです。

終わりに

以上、源行家の二刀流エピソードを紹介してきました。

意外に強かったんだ……と感心する一方で、何となくトリッキーな戦法が「いかにも行家らしいな」とも思います。

それにしても「身分の低い者が大将を討つと、討たれた大将の悲運が降りかかるから、帳消しのために罰を与えた後に恩賞を与える」という理屈がユニークです。頼朝なりの配慮なのか、それとも当時はけっこう一般的な価値観だったのでしょうか。

しかしせっかく手柄を立てたのに罰を受けたんじゃ、堪りませんね。

ちなみに、行家の最期について鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』ではこのように記されています。

……常陸房昌明等飛脚參着。持參前備前守行家之首。先被召件使者於營中。被尋問事次第。各申云。備州日來横行和泉河内邊之由。風聞之間。搜求之處。去十二日。在于和泉國一在廳日向權守淸實許之由。得其告行向。圍淸實小木郷宅。先之。備州迯到後山。入或民家二階之上。時定襲寄於後。昌明竸進於前。備州所相具之壯士一兩輩雖防戰。昌明搦取之。時定相加。其所梟首畢。又誅備州男大夫尉光家云々。……

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)5月25日条

【意訳】常陸房昌明ら飛脚が鎌倉に到着、行家の首級を持参した。その報告によると「行家が和泉・河内の両国(現:大阪府南部)に潜伏しているとの情報を得て捜索していたところ、和泉国の在庁官人・日向権守清実(ひゅうがごんのかみ きよざね)の元に匿われていた。密告によって小木郷(現:大阪府貝塚市)の現場へ急行、ただちに包囲したものの、行家は裏山へ逃げ込んで民家の二階(※1)に隠れたとのこと。
北条時定が背後から、昌明が正面から突入。行家の郎党が必死に防戦するも昌明はこれらを制して行家をとらえ、時定が梟首(きょうしゅ。さらし首)とした。また行家の子である源大夫尉光家(たいふのじょうみついえ)も討ち取った(※2)」とか。

(※1)当時、一般民家で二階建ては考えにくく、寺院の僧堂かあるいは民家であれば屋根裏だった可能性も考えられます。
(※2)5月13日、弟の源行頼(ゆきより)ともども討ち取られたとのこと。

かくして歴史の表舞台から去っていった源行家。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではあっけなくナレ死(ナレーションによって死んだ=殺されたことが紹介されるのみで退場)を遂げた彼ですが、その最期はこのようなものでした。

【行家の子孫・略系図】
源行家-源光家(左衛門尉)-源行方(蔵人)-源行忠(左兵衛尉)-源行俊(蔵人)-源行氏(左近将監)-源行房(蔵人)……
※『尊卑分脈』より、諸説あり

なお、『尊卑分脈』によると光家には一子・源行方(ゆきかた)がおり、その子孫が新宮(しんぐう)氏を称してその血脈を後世に受け継いだということです。

※参考文献:

  • 北原保雄ら編『延慶本 平家物語 本文篇 上・下』勉誠出版、1990年6月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡3 幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月
  • 太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』姓氏家系大辞典刊行会、1934年11月

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