1230年(寛喜2年)~1231年(寛喜3年)にかけて大飢饉が起こった。
鎌倉時代を通し最大の被害を出した飢饉に対処しなければならなかったのは、三代執権・北条泰時である。
彼はこの危機に対し、幕府の備蓄米を出すだけでなく、当時の富裕層に「飢えた人々に米を与えて欲しい」と頼んでいる。
執権でさえ頼りにした富裕な人々とは何者だったのだろうか?
有徳人とは
中世の富裕層といえば、有徳人(うとくじん・うとくにん)が挙げられる。
彼らは何故そう呼ばれたのか。
元々は徳を持つ人を示す仏教用語だったが、次の理由で富裕な人を意味する言葉となった。
・徳と得が同じ音
・寺社へ進んで寄付をする(強欲さを神仏に咎められない為と善行を積んでご利益を頂く)
「有徳」は、富裕や豊かを表すように変わり、銭を蓄えられるのは徳を積んだ者と見なされた。
つまり、彼らはありふれた庶民階級だったのである。
日本の三大随筆に数えられる「徒然草」には、ある大金持ちの言葉が載っている。
人間は他の事に捕われず、富を養うよう勤めるべきだ。貧しいばかりでは生きている甲斐がなく富裕な者だけが人と認められる。
銭を自分が仕える主人や神と同じく敬い、感情に任せて使ってはいけない。
有徳人と思われるこの大金持ちの貧者に対する容赦ない言動には、当時の世情が大きく関わっている。
貧しい庶民は、天候不順による飢饉や争乱で食べ物が手に入らず、家を焼かれ、身一つか僅かな持ち物で逃れるしかなかった。
飢饉が起きれば、生きるために身を売って奴婢(支配を受ける年季奉公者、下男下女を指す)になり下がる百姓や職人が大勢いた時代だった。
他者に依存し言いなりになる身分の者を大勢使用していた大金持ちは、奴婢の生活を人らしい暮しではないと感じていたに違いない。
では「有徳人」はどうやって裕福になれたのだろうか?
「有徳人」は、何故富裕層になれたのか?
鎌倉時代、有徳人が財を蓄えた商いの代表が次の3つである。
1. 借上(かしあげ)
2. 土倉(どそう・とくら・つちくら)
3. 酒屋
この3つの商いは、いずれにしろ金融業を意味し、鎌倉後期にはほぼ高利貸し的な存在となった。
彼らが金融業で儲けた理由としては、銅銭(中国・宋代に作られた宋銭等輸入された貨幣)が、国内で広く流通した背景がある。
1は、元々は初穂を神に捧げて神倉に貯蔵し、翌年の種籾に貸し出された事に由来する。
神聖な種籾は、稲刈りには数十倍に増えるので、借りた種籾に利息をつけて倉に納める。
同じように、富を増やす種金を借りた者は、金が増えたお礼を込め上乗せして返金するという聖なる行為だった。
しかし、次第に高利貸しとして利益を追及するようになっていった。
2は、都市の富裕層が、財産や商品を保管する頑丈な土壁倉を邸内に設置した事から始まる。
中世では土壁倉に大切な物を預ける事が一般化した。
火事が起こっても燃えない土倉は、誰もが設けられる代物ではなく、高い費用を必要とした。
財産を預かった側は、預けられた財産を担保にして金貸しを行うようになったのである。
3は、2と深い繋がりがある。
土倉で金融業を営む者は、酒屋を兼ねている場合が多かった。
彼らは、元々延暦寺(天台宗総本山寺院)・祇園社(現在の京都八坂神社)などの有力寺社の被官(中世では官吏の私的使用人・寺社の奉公人)が大部分だった。
神仏への捧げに酒は欠かせないので、寺社側から委託される形で酒造りが行われたと考えられる。
力を増す有徳人金融業者に鎌倉幕府はどう対処したか?
銭を蓄え富裕層に至った「有徳人」達は当然、銭勘定が得意である。
勘定の優秀さ故か、平安末期、借上を営む「有徳人」が年貢徴収を請負っていた。
鎌倉幕府では、借上の年貢徴収請負が政治問題になった。
即ち、年貢徴収は地頭職の仕事であるから、これを奪われれば御家人の死活に関わる。
1239年(延応元年)鎌倉幕府は、商人や坊主などの借上が地頭の代わりに年貢徴収を行う事を禁じ、翌年には、私領地を借上に売り渡したら、所領を没収する申渡しを行った。
しかしながら、禁止令の効果は薄かった。
借上達は権力者より上手で、北条得宗家(執権家)に仕え、借上を行う武士に変わった者も現れたからである。
しかし権力者は、金融業で力を増してゆく彼らに対し、何も行わなかった訳ではない。
5代執権・北条時頼は、酒屋が作る量を一壺と限定する「沽酒の一屋一壺制」を定めた。
名目上は飲酒上の諍いや健康被害を無くすためという理由だったが、酒屋と金貸しが同じであれば違う見方も出来る。
御家人や武士が酒屋と関って借金を膨らませ、所領を取られるトラブルが増えていたと考えられる。
酒屋が一屋一壺制を守らず、余剰分が見つかると、時頼はたたき壊すよう命じた。
時頼の厳しい措置には、武士の権益を脅かす有徳人に対する敵意すら感じられる。
終わりに
「有徳人」は、財力という力で、時には権利者に「貧民救済」を頼まれたり、御家人の権益を脅かす者として厭われる存在だった。
特に金融で財を成した「有徳人」は、高利貸しにより人々から土地や財産、果ては家族や自身の身柄さえ奪い、妬みと恨みを買っていた。
貧しい庶民が、「有徳人」に恐れと羨望の想いを抱いている事を、賢い彼らはよく知っていた。
「貧民救済」で彼らが米を放出したのも寺社に積極的に寄付したのも、世間の空気を読んでいたからに違いない。
寺社へ寄付すれば、高僧から有難い説教付きお礼を頂く機会もある。
また、人を騙して財産を取り上げた事ももちろんあったことだろう。
悪行を成せば地獄へ落ちる事も教わり、積極的に寄付した者もいたことだろう。
中世は、死後の世界や怨念・祟りを権力者も恐れる時代だった。
参考図書
日本の中世3「日本の中世3「異郷を結ぶ商人と職人」
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