ここでは上杉謙信と上杉氏について取り上げたい。
上杉謙信は越後国の守護代長尾為景の次男として生まれ、長尾景虎と名乗っていた。長尾景虎には兄の春景がいたが、病弱で頼りないことから景虎が台頭し、下剋上で越後国の守護大名になった。その後、関東管領上杉憲政から関東管領職を譲り受け、最終的に上杉謙信と名乗ることとなる。
関東管領上杉氏について
関東管領という役職ができたのは室町幕府成立後である。管領は将軍を補佐する職で、京都の室町幕府では細川・斯波・畠山の3氏が持ち回りで担当していた。
一方で、関東地方は鎌倉府が支配していた。鎌倉府のトップは鎌倉公方と呼ばれ、初代鎌倉公方は足利尊氏の4男基氏だった。関東管領は鎌倉府の鎌倉公方を補佐する職で、初代関東管領は高師冬であったが、南北朝時代後半から上杉氏が世襲していた。
室町幕府6代目足利義教の代になると、室町幕府と鎌倉公方との対立が生じるようになる。関東管領の上杉憲実と鎌倉公方の足利持氏と対立し、1438年に鎌倉公方の足利持氏が関東管領の上杉氏を攻めたのを機に、室町幕府から足利義教が持氏追討の兵を送った。この出来事を永享の乱という。この乱の結果、足利持氏は滅ぼされた。
永享の乱と享徳の乱
永享の乱後も関東地方で鎌倉公方と関東管領の対立は続く。
1454年に享徳の乱が起こった。この乱において足利持氏の跡を継いだ足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害した。足利成氏は幕府から追討の兵を送られるが、下総の古河に移って室町幕府に抵抗し続けた。室町幕府から足利政知が派遣された。足利政知は伊豆の堀越を拠点に成氏に対して抵抗をつづけた。鎌倉公方が2人いる状態になり、足利成氏は古河公方足利政知は堀越公方とそれぞれ呼ばれている。
享徳の乱の頃、関東管領の上杉氏も対立していた。上杉氏については扇谷上杉家と山内上杉氏の2つに分かれた。この上杉氏の対立がきっかけで関東管領の上杉氏の弱体化していったと言われている。
北条早雲の台頭と河越夜戦
享徳の乱の後、北条早雲が伊豆の堀越公方を滅ぼし、相模国の小田原に進出した。その後、北条氏は関東地方を支配し、関東地方の戦国大名として知られるようになる。北条氏の台頭に対抗するために扇谷上杉家と山内上杉氏は協力することになった。上杉氏が協力して北条氏と戦った事例として河越夜戦が挙げられる。
北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国における上杉氏の居城河越城を攻撃して占領していた。川越城の奪還を目指して、扇谷上杉家の上杉朝定、山内上杉氏の上杉憲政、古河公方の足利晴氏の連合軍が河越城を攻めた。河越城には氏康の義弟である北条綱成の兵が3千いるだけで、8万もの上杉連合軍が城を包囲していた。
小田原にいた北条氏康は駿河の今川義元と甲斐の武田信玄と同盟を結んで河越城へ救援に向かったが、8千の兵しか送れなかった。戦わずに兵糧が底をつくことにより北条氏が負けるのは時間の問題と思われていた。しかし上杉と足利の連合軍は油断していて戦に備えていなかったと言われている。
油断をしていた上杉と足利の連合軍に対して氏康は奇襲を仕掛けた。この奇襲の結果、扇谷上杉家の上杉朝定は戦死し、扇谷上杉家は滅亡した。山内上杉氏の上杉憲政は上州の平井城になんとか逃れたが、関東管領としての上杉氏の求心力が急速に弱まった。その後上杉憲政は長尾景虎を頼って越後に逃れ、足利晴氏の古河公方は滅亡した。上杉連合軍の死傷者は13000から16000人と言われている。
上杉謙信の誕生
上杉憲政は河越城の戦い(河越夜戦)に負けて平井城に逃れたが、北条氏が上州に向けて攻めたため、越後の守護代を務めていた長尾景虎を頼ることにした。そして長尾景虎に上杉の名字と関東管領職を譲った。景虎は上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、後に足利義輝より輝の1字をもらって、上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。その後戒名を得て最終的に上杉謙信と名乗ることとなるのである。
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