将軍になれなかった鎌倉公方
足利将軍家が成立してから約90年が経ったとある時、京都の足利将軍家では、とある揉め事が起こっていました。
当時第5代将軍だった足利義量(あしかがよしかず)は、父である足利義持の政治介入もあって酒の飲み過ぎでダウン。そのままこの世を去ってしまいます。
将軍が死んでしまったのですから仕方なくしばらくは義持が政治を取り仕切るのですが、義持は病に倒れてしまい、ついに次の将軍を決めなければいけなくなりました。しかし、義持は将軍を誰に継がせるのかをきっちり決めることなく死去。
将軍が誰が継ぐのかをついにはっきり決めなければいけなくなってしまいました。
そんな時に登場したのが鎌倉公方であった足利持氏(あしかが もちうじ)です。
当時、鎌倉公方といえば関東地方や東北地方を治めていた鎌倉府の長官。ぶっちゃけ将軍になってもおかしくない地位にありました。
しかし、第6代将軍になったのは足利持氏ではなく、比叡山延暦寺に出家していた義持の息子の義円という人だったのです。
しかもその決定の仕方がくじ引き(この頃のくじ引きはご神託のこと)という、なんとも将軍の決定としては如何なものかと言わざるをえないような代物だったこともあって鎌、倉公方の持氏は完全にぶちギレ。
将軍になって還俗した義円こと足利義教(あしかが よしのり)に、徹底的に反抗するようになったのでした。
鎌倉公方と足利将軍家の対立
こうして将軍になるチャンスを逃した持氏でしたが、これ以降、持氏は将軍となった義教を敵視するようになります。
義教の将軍の就任祝いの祝辞の使節を送らないのは序の口。
さらに当時元号が正長から永享に変わっていたのにも関わらず、鎌倉府では正長を続けたり、鎌倉五山の住職を勝手に決めたりするなどやりたい放題。
確かに、鎌倉公方という幕府の重職についているにもかかわらず将軍になれなかったのは悔しいと思いますが、流石にここまでくると行き過ぎです。
そして鎌倉府のトップ2である関東管領はこの状況に危機感を抱いていたのです。
鎌倉公方と関東管領との対立
本家との対立を深めていった持氏でしたが、この状況を見て関東管領の役職についていた上杉憲実(うえすぎ のりざね)はこの状況に危機感を抱いていました。
憲実は暴走をし始めていた持氏を度々戒めてなんとか食い止めようとしますが、これを持氏は無視。
挙げ句の果てには、息子の元服の時には普通は偏諱として将軍義教の『教』を使うはずが、よりにもよって将軍家しか名乗ることのできない『義』の字を与え、さらに反持氏派の武将を討伐するなど、将軍家に対する反抗はエスカレートしていきます。
もはやここまでくるとどうしようもない憲実。さらに義教自身がとんでもなく容赦のない人物で万人恐怖と呼ばれた人物でしたので、いつ討伐されるかわかったもんじゃありません。
憲実は抗議の意思を見せたのかはわかりませんが、持氏の息子の元服式をドタキャン。憲実の居城である上野国の平井城へと帰っていったのでした。
永享の乱の勃発
関東管領の上杉憲実が鎌倉公方の息子の元服式に出席しなかったことに怒った持氏は、ついに憲実の討伐に動き出し、憲実の居城平井城に進軍していきます。
しかし、この大騒動は将軍義教にとって好機となり、ついに鎌倉公方の討伐を決定。鎌倉府の近隣の国から兵を集めて鎌倉出兵を命じます。
これを受けて鎌倉府配下の武将たちは将軍になびいていき次々と裏切り、さらには憲実からは逆に侵攻されてしまう始末。こ
こに来て全てを悟ったのか持氏はついに将軍家に降参を決意し、出家をします。憲実はこの報告を受けて兵を帰還させました。
しかし将軍義教は出家を決意した持氏を徹底的に追い込むことを憲実に命令。
持氏の助命嘆願を憲実は決死の覚悟で行ったそうですが、この助命嘆願は叶うことはなく、持氏は息子とともに自害し果てたのでした。
永享の乱のその後
持氏が自害した後、持氏の遺児たちは散り散りとなりますが、これを受けて下総の結城家はこの遺児たちを保護。
その後、遺児を擁立した結城家と幕府との間で結城合戦と呼ばれる戦争が起きます。しかし、この戦争に義教は勝利。
遺児の安王丸と春王丸は斬首され、鎌倉府は廃止に追い込まれました。
その後、持氏の末っ子である永寿王丸が鎌倉府を再興させますが、これがのちに引き起こる享徳の乱に繋がっていき、関東地方は戦乱の時代に突入していくのでした。
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