前編では14歳で8代将軍になった足利義政(あしかがよしまさ)の前半生について解説した。
義政は祖父・義満を尊敬し、政治に意欲的な姿勢を見せたが、畠山氏の家督相続問題に介入したことで事態をより複雑化させてしまった。
今回は「日本三大悪女」と評される日野富子との結婚、さらに応仁の乱をこじらせた義政について解説する。
「悪女」日野富子と結婚
義就が畠山家の当主となった頃、義政は母・重子の兄の孫で16歳の日野富子(ひのとみこ)を正室に迎えた。
日野富子は、北条政子、淀殿と共に後に「日本三大悪女」と評される女性である。
富子は、美男子で教養のある義政をすぐに気に入ったと言われているが、この時、義政は別の女性に夢中だった。
それは幼い頃から、義政の養育係として側にいた10歳年上の御今(この頃は今参局 : いままいりのつぼね)である。
今参局は、義政の寵愛を受けて側室になっていた。(※乳母だったので側室ではなかったという説もある)
今参局は、幕府の軍事を司る奉行衆を務めた大館氏の出身だったため、幕府の役職の人事にまで口を出すようになっていた。
そんな今参局のことを苦々しく思っていたのが、義政の母・日野重子だった。
今参局と対立するようになった母・重子も幕府のことに口を出すようになり、義政は頭を悩ませていた。
そして当然、義政の正室・日野富子も今参局を良く思っていなかった。
長禄3年(1459年)義政と富子の間に第一子(男子)が誕生する。初めての男子の誕生に義政はとても喜んだが、その子はすぐに亡くなってしまった。
すると、義政の母・重子は「これは今参局の呪詛のためである」と難癖をつけた。
これを耳にした義政は怒りに震え、寵愛していた今参局を琵琶湖の沖島に流罪としたのである。
しかし、これでも収まらなかったのが日野富子だった。
「島流しなど生ぬるうございます。極刑に処して下さいませ」と義政を焚きつけた。
そして、今参局は死罪となってしまったのである。
今参局は「死罪とは家の恥、ならば自害して果てるのみ」と自害したが、この後、無実だったことが判明した。
この一件は、日野富子一派の女房たちによって仕組まれたことが分かったのである。
その後、今参局の怨霊が出ると噂され、富子だけでなく重子も悪夢に悩まされた。
重子の病が重くなった時には、祟りを恐れて今参局の追善供養が行われたという。
この当時は呪詛や怨霊が信じられており、義政も今参局を死罪にしたことをかなり後悔していたという。
母・重子と妻・富子から政に介入されることになった将軍・義政は、それに嫌気が差したのか、次第に政に対する気力を失っていった。
趣味に没頭し、酒宴に明け暮れる日々を送るようになっていったのだ。
贅沢で無気力な将軍
義政が将軍になって10年ほど経った長禄4年(1460年)頃から、長期の干ばつや長雨の影響で大飢饉が広がっていった。
そのため、地方で飢餓状態に陥った民衆たちが京都に押し寄せた。
もちろん京都も食糧難で、京の町は餓死者の死体があちらこちらに転がっている状態であったという。
税収源である農作物の収穫が大幅に減ったことで、幕府の財政は逼迫していた。
この危機的状況に義政は、何と将軍の御所・室町殿の造営(改築)を進めていたという。
民衆が飢餓で苦しむ中、将軍として何も手を打たず、莫大な費用をかけて贅沢な御殿を建設しようとしたのである。
その無神経ぶりに激怒したのが、時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう)だった。
後花園天皇天は義政に皮肉を込めて
「残民争採陽蕨 処々閉炉鎖竹扉 諸興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥」
という漢詩を送り付けたという。
訳すと「民のためであろう、何をしている」という意味であり、義政を諫めたのである。
義政は大いに自分を恥じて、室町殿の造営を一時中止にした。
しかしその一方で、母・重子のために高倉御所(高倉殿)の造営(改築)を開始しているのだ。
義政は全く政に興味がなくなったのか、飢饉の後も能・花見・旅行などを大がかりに行い、贅沢三昧な遊びばかりをしていたという。
そして寛正6年(1465年)10月、「東山山荘」の造営計画を立て始めたが、この計画は中止を余儀なくされた。
11年という長きに渡る騒乱「応仁の乱」が勃発したからである。
応仁の乱をこじらせる
義政と正室・富子の間には、2人目の男子が中々授からなかった。
政に嫌気が差していた義政は隠居の準備に入ると、僧侶となっていた弟を還俗させて足利義視(あしかがよしみ)と名乗らせて後継とした。
しかしその翌年、富子が男子(後の足利義尚 : あしかがよしひさ)を産んだ。
当然、富子は我が子を後継にするように義政に迫ったが、義政は「とりあえず義視を中継ぎの将軍にして、義尚が成長したら将軍にすればよい」と曖昧な態度を取った。
これが大きな混乱を招くとなる。
富子が我が子・義尚を将軍に就かせるべく動き始めたのである。
富子が頼ったのは山名宗全だった。
この時、もう1人の実力者・細川勝元は、義政から弟・義視の後見人を任されて、すでに義視側についていた。
元々、山名宗全と細川勝元は姻戚関係にあり親密だったが、畠山氏の勢力が内紛で弱まると2大勢力となった両者は幕府内の覇権を争って対立するようになっていた。
山名宗全は富子の思惑通り義尚につくことになり、細川勝元は義視の後見人となったことで2人は対立し、山名方は西軍、細川方は東軍となって一触即発の状態になった。
細川方(東軍)には、畠山政長・京極持清・武田信賢などがつき、山名方(西軍)には畠山義就・斯波義廉・大内政弘などがついた。
こうして応仁元年(1467年)5月26日、11年にも及ぶ「応仁の乱」が勃発したのである。
まず東軍が西軍の京の屋敷に攻撃を開始したが、この戦いは勝敗がつかずに翌日には終結した。
しかし、とにかく何でもかんでも火をつけるという戦いだったため、京都はあっという間に焼け野原になってしまった。
この戦いがひとまず終結した5月28日、将軍・義政が介入し、東西両軍に「ひとまず戦いをやめて指示を待つように」と命じた。
更に、山名方の西軍についていた畠山義就には「河内に下って争いを避けてくれぬか」と命じた。
義政はこの戦を終わらせて、将軍としての威厳を示そうと様々な工作を試みたのであった。
ところが、義政はとんでもない決断を下してしまう。
応仁の乱が始まって5日後、義政は細川勝元から「将軍の御旗を我が東軍に下さりませぬか?」と迫られた。
義政は「将軍旗?・・それは逆賊を討つために掲げるものだろう」と返すと、勝元は「山名宗全も畠山義就も公方様の命に背く者たち、逆賊では?」と答えた。、
義政は「確かに・・分かった将軍旗をお主に授けよう」と言って東軍を官軍にしてしまったのである。
その結果、中立だった義政が東軍方についたことになり、調整役を果たせないばかりか、官軍となった東軍と賊軍になった西軍の戦いを助長することになってしまった。
それぞれの陣営が全国の守護大名に参陣を求め、一説には東軍は約16万、西軍は約11万、総勢27万もの軍勢が京都に集結したという。
将軍を抱え込んで大義名分を得た東軍は勢いづき、応仁元年(1467年)6月、各所にいる西軍を攻撃したために、京の町は再び火の海と化したのである。
応仁の乱が生んだ混乱
東軍が官軍となり、西軍が賊軍となったことで西軍から寝返る守護大名たちが現れ、遂には西軍の有力武将で幕府の管領だった斯波義廉(しば よしかど)も東軍へ寝返ろうとした。
斯波義廉が東軍に加われば俄然東軍が優勢となるために、戦いは一気に終息に向かってもおかしくはなかった。
ところが、義政が再び介入し、斯波義廉に「朝倉孝景の首を差し出せ」という条件を出した。
朝倉孝景は斯波義廉の重臣で戦に長けており、実質的な斯波軍の大将だった。
そのため、斯波義廉は「将軍の出した条件は飲めぬ!」と東軍に寝返ることをやめた。
またもや義政の余計な介入で事態がややこしくなり、応仁の乱は終息の大きなチャンスを逃し、11年もの長きに及ぶことになってしまったのである。
終わりの見えない応仁の乱だったが、文明5年(1473年)3月に山名宗全が70歳で亡くなり、5月に細川勝元が44歳で亡くなった。
その翌年に細川と山名それぞれの家を継いだ息子たちが和平を結び、戦いは終息に向かったが、京にはまだ西軍有力メンバーの大内政弘と畠山義就が残っていた。
2人には戦から引けない理由があった。それは義政の弟・足利義視の存在であった。
応仁の乱の発端となったのは将軍の後継問題(弟・義視 vs 息子・義尚)だったが、戦が始まると中心となったのは細川氏と山名氏の権力争いで、将軍の後継問題は二の次になってしまっていた。
将軍候補だった足利義視は、かつては東軍の総大将に担ぎ上げられていた。
しかし戦いが長引くと、義視の後見人だった細川勝元は義視の将軍擁立に動かないばかりか、なんと義視に出家を勧めていたのである。
そんな状況の中で、義視は東軍に不信感を募らせていった。
さらに兄である義政が、義尚の養育係だった伊勢正親を重用したために、東軍内でも義尚擁立の方向に傾いていたのである。
義視は「このままでは将軍にはなれぬ」と思っていた。
そんな義視に近づいたのは、形勢を有利にしたかった西軍だった。
その誘いに乗った義視は西軍に寝返り、今度は西軍の総大将に担ぎ上げられたのである。
義政は義視の裏切りに大激怒し、東軍に義視の討伐を命じた。
もし西軍が負ければ義視の命が奪われる。義視を西軍に引き込んだ手前、大内と畠山は戦いを終わらせることができなかったのである。
しかし文明8年(1476年)12月、義政と義視は和解した。義視が出した侘び状に対し、義政は「今後粗略に扱うことはしない」と約束したのである。
こうして西軍が引けずにいた理由が取り除かれたために、文明9年(1477年)西軍の畠山義就は降伏もしないまま、何事もなかったかのように本国の河内国へ戻っていった。
まもなくして西軍の主力・大内政弘も、周防・長門・筑前・豊前の守護職を安堵するという破格の待遇を受けて東軍に降伏し、わずかに京に残っていた大名たちも陣を引き払って本国へと帰っていった。
結局、応仁の乱は勝者も敗者もなく、何も解決しないまま終結したのである。
応仁の乱の後、すぐに戦国の世へと流れていった印象があるが、実は乱の後、京の町は目覚ましい復興を遂げて、義政が亡くなるまで20年の間、人々は泰平の世を謳歌した。
文化の花を咲かせた将軍
応仁の乱終息から、5年後の文明14年(1482年)、義政は念願だった「東山山荘」の造営を開始した。現在の東山慈照寺である。
その象徴である銀閣は、室町時代後期の東山文化を代表する書院造の建物だ。
その銀閣の完成を待つ間に義政が暮らしていたのが東求堂である。床に畳を敷き詰め襖や障子で小部屋に区切るという発想は義政の頃に生まれたもので、茶室の起源とも、現在の和風住宅の原型とも言われている。
義政は東求堂で銀閣ができるのを眺めながら、多くの文化人と交流を深め、芸術や茶の湯などの趣味を楽しみながら過ごした。
その一方で東山山荘で政務を行ない続け、隠居後も政治の実権を手放さなかった。
成人となった9代将軍・義尚はやがて不満を抱くようになり、義政との間に確執が生じた。
そんな不満からか、義尚は酒に溺れるようになっていった。
そして酒の飲み過ぎのせいで義尚は病になり、25歳の若さで亡くなってしまったのである。
義政は義尚と和解できないまま、その翌年の延徳2年(1490年)義尚を追うようにこの世を去った。
享年55だった。
おわりに
足利義政の治世は失敗の連続だったのかもしれない。
応仁の乱が結局誰が勝者だったのかもわからず長く続いたことや、後世から見ても非常に複雑でわかりにくいのも、義政の優柔不断な政治の影響が大きいだろう。
しかし、時代の大きな転換期にわずか8歳で家督を継ぎ、14歳で将軍となった義政は、周りの大人たちに介入されながらも将軍として何とか政治に取り組もうとしていたのではないだろうか。
文化の面では、指導者として十分にその役割を果たしている。
晩年に築いた東山山荘を中心に花開いた芸術や宗教は東山文化と呼ばれ、京都から全国へと広がっていった。
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