平城京は、東大寺の金色の大仏をはじめ、興福寺や春日大社など壮麗な伽藍が立ち並び、唐の文化を積極的に取り入れた国際都市として栄えた。
この華やかな時代は、後世「天平文化」として語られることが多い。
だが、その輝きの裏側では、天皇や貴族たちが権力をめぐって互いに疑い、排除し合う政争が絶えなかった。
長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の変、そして光明皇太后と孝謙上皇を後ろ盾に、藤原仲麻呂が絶大な権力を握った。
しかしその栄華は、やがて上皇との対立によって急速に崩れ去る。
今回は、奈良時代の終末を決定づけた「藤原仲麻呂の乱」を通して、この時代の権力構造の崩壊をたどっていこう。
奈良時代の終末へとつながる転機となった「藤原仲麻呂の乱」

画像:藤原仲麻呂イメージ(日本服飾史)
奈良時代は、皇族や貴族を巻き込んださまざまな政争が続いた時代であった。
しかし、上皇と太政大臣という朝廷の最高権力者同士の対立が、都・平城京を舞台に実際の戦闘行為へと発展したのは、764年に起こった「藤原仲麻呂の乱」ただ一度である。
このような観点からも、「藤原仲麻呂の乱」は672年の「壬申の乱」に匹敵する国家的内乱であったともいえる。
それほどの大事件でありながら、近年の教科書では意外なほど簡略に扱われているのが現状である。
それまで絶対的な権力を握っていた藤原仲麻呂は討たれ、淳仁天皇は廃位された。
そして、一度は退位していた孝謙上皇が再び即位し、自ら天皇の地位に復帰する「重祚(ちょうそ)」を行ったことは、時代の転換点として極めて重要であった。
さらに、未婚の女性天皇である孝謙天皇(重祚後の称徳天皇)が再び政治の表舞台に立ったことにより、天武天皇の血統によって継承されてきた皇位の行方は混迷を極める。
その結果、天皇家の血筋とはまったく関係のない僧侶・道鏡に権力が委ねられ、皇位継承者に擬されるという異例の事態が生じた。
そしてこれが、奈良時代の終末へとつながる大きな転機となったのである。
光明皇太后と藤原仲麻呂の独裁政治

画像 : 光明皇后 public domain
藤原仲麻呂の権力保持の背景には、光明皇太后の存在があった。
光明皇太后は、聖武天皇の一周忌を終えると、娘の孝謙天皇を伴い、甥である仲麻呂の邸宅・田村第へと移った。
孝謙天皇と仲麻呂は12歳差で、仲麻呂の方が年上である。
二人は従兄弟の関係にあり、幼少のころから親しく知り合っていたようだ。
藤原仲麻呂というと、権力への執着心と冷徹さが強調されがちだが、実際には生まれつき聡明で、算術や経書などあらゆる学問に秀でており、仏教に対しても深い信仰心を抱いていたと伝えられている。
光明皇太后は、皇后の家政機関である皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改め、大納言に任じられたばかりの仲麻呂を、その長官・紫微令(しびれい)に就けた。
※紫微中台とは、唐の中書省を範とした新官制であり、若い孝謙天皇を後見する光明皇后が大権を振るうために、皇后宮の組織を改めて設置した機関。
この紫微中台を構成する役人の数や官位の高さは、太政官に匹敵していた。
そのため、やがてこの機関は孝謙天皇に代わって国政を執行する組織へと変貌していく。
つまり、光明皇太后と仲麻呂による独裁的な政治が展開されたのである。
しかし、758年に光明皇太后が体調を崩すと、孝謙天皇は舎人親王の七男・大炊王に譲位し(第47代淳仁天皇)、自らは太上天皇(太政天皇)となった。
孝謙天皇の譲位の理由は、光明皇太后の看病に専念するためとされた。
しかし実際には、光明皇太后にもしものことがあった後も、仲麻呂が淳仁天皇を推して権力を保持できるようにする意図があり、そのことを天皇自身も容認していたと考えられる。
孝謙上皇と淳仁天皇の対立が仲麻呂の乱を生んだ

画像 : 孝謙天皇(こうけんてんのう)重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう)public domain
760年、人臣として初めて皇后の位に就いた光明皇太后が崩御した。
この直後から、藤原仲麻呂にとって暗雲が漂い始める。
孝謙上皇は、光明皇太后の死去により、まるで束縛を解かれたかのように自由な振る舞いを見せるようになった。
光明皇太后の絶大な権力を継承した孝謙上皇は、自らの権力に目覚めたのである。
これにより、孝謙上皇と仲麻呂、そして淳仁天皇との関係は、次第に微妙なものとなっていった。
光明皇太后の崩御後、孝謙上皇は淳仁天皇を伴い、飛鳥の小治田宮から近江の保良宮へ行幸した。
この時点では、両者の関係は良好であったといえる。
しかし、この行幸の途上で上皇は病に倒れてしまう。

画像 : ゆげの道鏡 ※松本幸四郎 publicdomain
その際、看病にあたったのが、弓削氏出身で法相宗の僧侶・道鏡であった。
看病禅師として招かれた道鏡は、上皇のそばに寄り添い、手厚く看病した。
やがて上皇は回復し、以後、道鏡をそばに置いて深く寵愛するようになった。
このような孝謙上皇の振る舞いを見た淳仁天皇は、一介の僧侶を過度に寵愛することを諫めた。
しかし、この諫言によって両者の関係は完全に決裂した。
そしてついに孝謙上皇は、淳仁天皇に対して決定的な宣言を行ったのである。

画像:淳仁天皇 public domain
その宣言とは、以下のような内容であった。
政事(まつりごと)は、常の祀(まつり)、小事は今の帝行ひ給へ。国家の大事、賞罰二つの柄(もと)は朕(われ)行はむ。
すなわち、「日常の政務や儀礼などの小事は今の天皇が行えばよい。だが、国家の大事や賞罰といった決定権は私(上皇)が行う」というものである。
こうした動きを見ていた藤原仲麻呂は、764年9月、ついに孝謙上皇を排除すべく行動を開始する。
これが、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」である。
仲麻呂は兵を集めるため、太政官印を用いて文書を改竄したとされる。
しかし、太政官の役人が災いを恐れ、密かにその事実を孝謙上皇に奏上した。
上皇はこれを「逆謀(反逆の企て)」と断じ、淳仁天皇のもとにあった鈴印(れいいん)を奪うべく山村王を遣わし、ここに戦闘が始まった。
上皇方についた坂上苅田麻呂らは、仲麻呂の三男・訓儒麻呂(くすまろ)らを殺害し、鈴印の奪取に成功した。
孝謙上皇は勅を発して仲麻呂の官位・藤原姓・封戸を剥奪し、あわせて三関(鈴鹿・不破・愛発)を固めるよう命じた。

画像 : 藤原仲麻呂の乱 public domain
仲麻呂は本拠地である近江への移動を試みたが、上皇軍が勢多橋を焼き落としたため、湖西を北上して高島郡へ退いた。
さらに、八男の辛加知(からかち)が国司を務める越前への逃避を図ったが、辛加知はすでに上皇軍によって殺害されていた。
この事態を受け、仲麻呂は同行していた塩焼王を立てて「今帝(きんてい)」と称し、子の真先(まさき)・朝猟(あさかり)を親王に準じて三品に叙した。
しかし、上皇軍の追撃により仲麻呂一行は追い詰められ、琵琶湖上へ船で逃れようとしたところを捕捉された。
太政大臣として朝廷の頂点を極めた仲麻呂は妻子・30数名の徒党らとともに斬首されたのである。
このようにして「藤原仲麻呂の乱」は、わずか10日間で鎮圧された。

画像:西大寺に伝わる孝謙天皇像 wiki.c
「藤原仲麻呂の乱」は先述した通り、上皇と太政大臣という最高権力者同士の権力闘争であった。
しかし裏を返せば、この乱は仲麻呂が支えた淳仁天皇と孝謙上皇との対立が表面化したものとも言える。
乱の後、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、やがて道鏡を天皇位につけようとする画策を進めた。
だがこの行為は、貴族や官人たちの強い反発を招くこととなる。
それでも称徳天皇は、死に至るまでその試みを貫こうとした。
それは、天武天皇の皇統を守るために、一人の女性としての幸せを犠牲にせざるを得なかった彼女なりの、最後の抵抗であったのかもしれない。
※参考文献
木本好信著 『奈良時代-律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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