
画像:筑波山の梅林 photoAC
春、それは出会いの季節である。
日に日に暖かさを増す空気を肌に感じ、色とりどりに咲く花を見て、どこか浮ついた気持ちになる人も少なくないだろう。
私たちの先祖である古代に生きた多くの日本人にとっても、春は出会いの季節だった。
なぜなら春は「歌垣(うたがき)」という大きな行事が開催される季節だったからだ。
この歌垣という風習は局地的なものではなく、日本の各地で催されていた。
今回は日本最古の合コンともいわれ、一説には男女の「性の開放」の場でもあったと伝わる「歌垣」について、紐解いていきたい。
男女の出会いの場でもあった歌垣

画像:春の筑波山 photoAC
歌垣とは、農閑期である春と秋の特定の日時に決められた場所に、当時の結婚適齢期に達した男女が集まって、皆で飲食しながら歌や踊りに興じ、親交を深めた行事のことである。
古代日本で行われていた歌垣は、自然崇拝の信仰に基づいた祝祭だった。
歌垣の会場に集まった人々は、その年の豊作を祝って神に感謝を捧げ、翌年の豊作を祈りながら酒や食事を楽しみ、男女で恋の歌を掛け合って恋愛関係を結んでいたという。
日本で歌垣がいつ頃始まったのか詳しい時期は不明だがその歴史は古く、縄文時代にはすでに歌垣のルーツといえる風習が存在していたとも考えられている。
日本という国家は西国で始まったとされるが、東国でも「かがい(嬥歌)」という、歌垣と同様の行事が古くから行われていた。
歌垣の開催場所に選ばれたのは、山頂や川、市や海浜など、呪的信仰に基づく境界とされていた場所が多く、現在でも茨城の筑波山、大阪府の歌垣山、佐賀県の杵島山が「日本三大歌垣」と呼ばれている。
古代日本においては、歌垣は老若男女が1人の相手に縛られずに自由に交わる機会を得る、いわゆる「性の開放」の場であったと考える説もある。
言霊信仰においては、相手より強い言霊を持つ歌を詠んだ方が、勝者として敗者を服従させる権限を持ったともされる。
『万葉集』に見る歌垣の実態

画像:秋の筑波山神社 photoAC
万葉集巻9に、奈良時代の歌人である高橋虫麻呂が、筑波山で行われた歌垣を題材に詠んだ和歌が掲載されている。
『筑波嶺に登りて嬥歌会をせし日に作れる歌一首』
長歌
“鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
反歌
“男の神に雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れ通るともわれ帰らめや”
この歌を現代語で意訳すれば、このような意味となる。
“神聖な筑波山の、裳羽服津(もはきつ)という美しい水辺のほとりで、若い男女が誘い合って集まり、歌を掛け合う嬥歌(歌垣の東国呼び)に興じている。私も誰かの人妻と交わうから、私の妻にも他の誰かが声をかけるといい。
嬥歌は筑波山の神が古くから許してきた神事なのだから、今日だけは見逃してほしいし、咎め立てしないでほしい。”
“たとえ筑波山の男体山に雲が立ちのぼって冷たい晩秋の雨が降り、この体がずぶ濡れになったとしても、私があなたを置いて帰るわけがない。”

画像:藍紙本万葉集 public domain
高橋虫麻呂は奈良時代を代表する歌人であり、『万葉集』には虫麻呂作の歌34首が収録されている。
それに加えて常陸国(現在の茨城県)国司であった公卿に仕え、『常陸国風土記』の編纂にも携わったとも伝わる人物でもある。
そのような人物が願望露わの情熱的な歌を詠むほどに、筑波山の歌垣は男女の熱気溢れる一大イベントであったとも推測できる。
虫麻呂は常陸国に限らず日本各地の伝説や人事を題材にした歌を多く詠んだが、この筑波山の嬥歌の歌は当時の歌垣の奔放な様子をうかがい知れる作品として、特によく知られている。
『常陸国風土記』によれば、筑波山で春と秋の年2回行われる歌垣には、小田原の足柄山以東の諸国から多くの男女が集まり、徒歩で来る者もいれば馬に乗って来る者もいて、一説には数千人以上もの人々が集まる規模であったという。
数千人の男女が既婚独身関係なく交わる祝祭と書くと、とんでもなく不埒な行事に聞こえてくる。
しかし虫麻呂が生きた奈良時代の結婚は、あくまでも自らが所属する家や村の意向で成立する関係であり、当人同士の恋愛感情とは関係ないものであった。
当時の筑波山で行われていた歌垣は、豊作と繁栄を祈る神事であったと同時に、当時の人間にとっては自らの意思に従って恋慕した相手と堂々と愛し合える、貴重な機会であったともいえる。
歌垣で繰り広げられた三角関係和歌バトル

画像: 山の辺の道 wiki c Yobito KAYANUMA
日本の歴史書である『古事記』や『日本書紀』にも、歌垣についての記述がある。
『日本書紀』には、山の辺の道の起点になったとも伝わる日本最古の市「海柘榴市(つばいち)」の歌垣で、武烈天皇が恋敵と歌で競って敗けた後、武力でその恋敵の一族を滅ぼした伝承が記されている。
古墳時代の天皇である武烈天皇は、皇太子時代に影媛(かげひめ)という女性に婚約を申し込んだ。
この影媛は物部麁鹿火(もののべ の あらかひ)の娘で、麁鹿火は武烈天皇即位後に軍務を司る大連(おおむらじ)を務めた人物である。
しかし武烈天皇の知らない所で、影媛はすでに平郡鮪(へぐりの しび)という男と通じていたのだ。
この鮪という男は、武烈天皇の父である仁賢天皇に大臣(おおおみ)として仕えた、平群真鳥(へぐりの まとり)の息子だ。
真鳥は仁賢天皇崩御後に国政を意のままに操るようになり、自らが「日本の王」になろうとしていた人物だった。
鮪との関係が武烈天皇に知られることを恐れた影媛は、武烈天皇のプロポーズに対して「海柘榴市で会いましょう」と返答したという。

画像:影媛道行歌の歌碑/天理市櫟本町(旧・添上郡櫟本町)に鎮座する和爾下神社の参道脇に建つ。 wiki c Kochizufan
海柘榴市(つばいち)とは、現在の奈良県桜井市三輪山南西あたりにあったとされる市で、多くの人が集まる歌垣の開催地でもあった。
武烈天皇は官馬を管理していた真鳥に侮られ、馬を調達できないというトラブルに合い怒りを抑えながらも、海柘榴市へとたどり着いた。
そしてようやく影媛と落ち合えたところに、待ち構えていた鮪が2人の間に割り込んできた。鮪は影媛を奪われまいと、武烈天皇に対して歌合戦を挑んだのである。
当初は何も知らなかった武烈天皇だが、歌合戦の最中に2人のただならぬ関係を知ることになり、赤面しながら激昂して帰途についた。
それからその晩のうちに、武烈天皇は父の側近だった大伴金村(おおとも の かなむら)を訪ねて兵を集めさせ、鮪を平城山に追い詰めて誅殺してしまう。愛する鮪を目の前で殺された影媛は、あまりの悲しみに気を失ったという。
その後に金村の進言によって、鮪の父である真鳥の計画も潰されて、平郡氏の嫡流は滅亡し、武烈天皇の即位後に物部麁鹿火(もののべのあらかい)と大伴金村が大連に任じられたと伝えられている。
『古事記』には、武烈天皇の叔父にあたる顕宗天皇と志毘臣(しびのおみ)、2人に奪い合われる大魚(おうお)という女性を登場人物とする、同様の話が記載されている。
歌垣の変容と日本人の恋愛

画像 : 歌垣イメージ
古くは神や自然に感謝を捧げる行事だった歌垣だが、時代が下るにつれ、神事としての性格は薄れていった。
奈良時代には歌垣は唐から渡来した踏歌(とうか)と合流し、平城京の朱雀門や河内の由義宮では、貴族や帰化氏族が参加する大規模な歌垣が開催されたという。
平安時代初期には踏歌が正式に宮中行事に採用され、恋愛要素は薄れて、私たちも良く知る雅な歌文化へと変化していった。
個人の恋愛は個人の裁量で進められるようになり、1000年以上の時が過ぎた現代では結婚も個人の自由意思に任されるようになった。
男女の出会いの場としての役割を失った今でも、茨城の筑波山神社や、佐賀の杵島山の稲佐神社は縁結びのパワースポットとして人気があり、大阪の歌垣山もまた縁結びの山として親しまれている。
結婚したいのに良い出会いがないと悩んでいる方、大好きな人と結ばれたいと考えている方は、この春に歌垣の聖地へと足を運んでみてはいかがだろうか。
参考文献 :
加納邦光 (著)『恋に生きる万葉歌人 ―高雅な歌から官能的な歌まで―』
大平裕 (著)『暦で読み解く古代天皇の謎』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























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