奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう)は仏教によって国家鎮護をするため、国分寺・国分尼寺建立の詔を各地に発した。
そのうち都に建てられた総国分寺は、大仏さまで有名な東大寺である。総国分尼寺は、平城京の東端にある 法華寺 (ほっけじ)という寺院である。
法華寺は仏像好きの間では知られた存在だが、東大寺ほど有名ではない。
そこで、法華寺のなりたちについて調べてみた。
目次
国分寺・国分尼寺建立の詔のおさらい
天平13年(741)に出された国分寺・国分尼寺建立の詔は、国ごとに国分寺・国分尼寺を造るという詔である。
国分寺は寺号を「金光明四天王護国之寺」として僧侶を20人置く、国分尼寺は寺号を「法華滅罪之寺」として10人の尼僧を置くという内容だ。
日本国内の全部で68の国に国分寺が建立され、そのうち32の国に国分尼寺も置かれた。
国分寺・国分尼寺建立は、后である光明皇后が聖武天皇に勧めたとの記録があるらしい。国分寺は、天授元年(690)に唐の則天武后が諸州に大雲経寺を置いた先例がある。
法華寺は光明皇后が実家の跡地に創建
総国分尼寺として法華寺が創建された経緯は明らかではない。『続日本紀』に「天平17年(745)にもとの皇后宮を宮寺となす」とあるのが最初である。
藤原不比等の邸宅跡を娘の光明子(のちの光明皇后)が相続し、そのまま居を構えて皇后宮とした。創建後、しばらくは皇后宮の殿舎を寺として利用し、東大寺の建立を最優先して聖武天皇とともに全力を注いでいたようだ。
法華寺の伽藍整備が本格的に始まったのは、聖武太上天皇の一周忌に間に合うように東大寺の伽藍整備を終えた天平勝宝9年(757)より後である。光明皇太后はその頃に発病し、天平宝字4年(760)と考えられる法華寺金堂の完成を、見届けず崩御した可能性が高い。
法華寺金堂の本尊は、東大寺と同じく金色の盧舎那仏だった。脇侍として、観音菩薩と虚空蔵菩薩を配置していた。
孝謙天皇が創建した阿弥陀浄土院は、浄土式庭園のさきがけか?
天平宝字5年(761)伽藍の南側に、阿弥陀三尊を本尊とする阿弥陀浄土院が建立された。
伽藍の調和を乱すような配置だが、娘の孝謙天皇が光明皇太后の浄土往生を祈願して建立し、ここで一周忌の法要が営まれた。
平成12年(2000)の発掘調査で、阿弥陀浄土院の跡地から庭園と池の遺構が発掘された。※参考PDF
阿弥陀仏の極楽浄土を表わすために池を配する浄土式庭園は、平安時代になってから盛んに作られた。
京都府宇治市の平等院庭園がその代表格である。
しかし藤原不比等の庭園は、平等院よりも約300年も前に作られている。
もともと不比等邸にあった池のある庭園が、法華寺建立後は仏花を育てる花園になり、そこに阿弥陀浄土院が建てられたと考えられるが、まだまだ不明な点が多い。
南都焼討で法華寺も被害を受ける
法華寺の伽藍は延暦元年(782)までには整備が済んでいたようだが、平安遷都後はほかの南都の寺院と同じく衰退してしまった。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼討では、法華寺も影響を受けた。
このとき平氏の軍勢は、般若寺越えとウワナベ越えの二手に別れて南都を攻撃した。平重衡はウワナベ越えをして、法華寺の鳥居に陣を敷いた。ウワナベとは現在の国道24号線沿いにある、ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)のことだ。
現在は法華寺の鳥居はないが、平安時代後期から鎌倉時代初期の記録に奈良の入口として登場する。この鳥居は、法華寺の鎮守社の法華寺神社の鳥居である。
法華寺神社は金堂の西側にあり、9世紀頃に勧請されたとみられる。鳥居は法華寺と東大寺を東西に結ぶ一条通に東向きに建っていて、南都焼討のさいには僧兵の首がさらされるなどした。
倒壊と復興を繰り返して現在に至る
南都焼討で大きな被害を蒙った東大寺を復興させた僧侶、重源(ちょうげん)は、法華寺の金堂、本尊、脇侍、東西両塔の修復も行なった。
ついで西大寺の僧侶、叡尊(えいそん)の戒律復興運動により、寺運が隆盛し、伽藍も修復された。叡尊はたびたび尼僧に戒律を授け、多くの尼僧たちの力で法華寺が再発展した。
しかし、戦国時代の明応8年(1499)と永正3年(1506)の2回、大和国に攻め込んできた赤沢朝経(あかざわともつね)の軍勢により破壊された。そのうえ慶長元年(1596)の慶長伏見地震で、金堂が倒壊、本尊も破損してしまった。
復興は早く、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元(かたぎりかつもと)を寺社奉行として、慶長6年(1601)に講堂(現在の本堂)を建立、鐘楼と南門も建てられた。本堂の廻廊の擬宝珠に、その旨の銘文が刻まれている。
宝永4年(1707)の宝永地震で東塔も倒壊。現在の寺観は、大正時代に15歳で入寺した先代の門跡の尽力により、整備された。
法華寺は大和三門跡の一つ
皇族や公家の出身者が住職を務める寺院のことを、門跡寺院(もんせきじいん)という。住職自身のことも門跡と呼ぶ。
法華寺も皇女や公家の子女が住職を務めた門跡寺院で、「法華寺御所」の称号を持つ。奈良市の円照寺、斑鳩町の中宮寺と並ぶ「大和三門跡」の一つである。
先代の門跡は久我侯爵家の令嬢で、貞明皇后に推されて入寺した。貞明皇后は法華寺にたいそう心を配り、本尊の十一面観音菩薩に青銅の灯篭を奉納している。
平成25年(2013)に就任した現在の門主は、法華寺創建以来初の一般の出身者である。
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