和銅3年(710)から延暦13年(794)まで84年間続いた奈良時代は、聖武天皇・光明皇后・孝謙(称徳)天皇一家を中心にして動いた時代といっても過言ではないだろう。聖武天皇は独身の女性天皇である孝謙天皇の次を、どう考えていたのだろうか。
持統天皇の即位以降を調べながら、考察してみた。
目次
敏腕政治家 持統天皇は、草壁皇子の即位を待った
朱鳥元年(686)、天武天皇(40代)は崩御する前に「天下のことは大小かかわらず、すべて皇后と皇太子に啓上せよ」と遺詔した。
古代は天皇の執政能力に不安があった場合、大后(皇太后)が補佐をする体制であったようだ。
天武天皇の皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)、皇太子は草壁皇子(くさかべのみこ)である。
鸕野讃良大后が草壁皇太子の即位のために体制固めをしていた矢先の持統天皇3年(689)、草壁皇太子が28歳で早世する。妻の阿陪(阿閇)皇女との間の軽(珂瑠)皇子は、まだ7歳だった。
持統天皇4年(690)、鸕野讃良大后は持統天皇(41代)として即位した。
草壁皇子の遺児の文武天皇は、持統太上天皇と共同執務
15歳になった軽皇子は持統天皇11年(697)に文武天皇(42代)として即位した。持統天皇は初の太上天皇(皇位を後継者に譲った後の尊号)となり、文武天皇の後ろ盾になって共同で執政した。
しかし大宝2年(702)に持統太上天皇が崩御、慶雲4年(707)には25歳で文武天皇が崩御する。
文武天皇は藤原不比等の娘の宮子を妻とし、その間に7歳の首皇子(後の聖武天皇)がいた。
孫の将来に望みを託した元明天皇、母と共同執務した元正天皇
文武天皇の遺詔を受け、母である阿陪皇女が慶雲4年(707)に元明天皇(43代)として即位した。
生前から譲位を持ちかけられるも固持していたのだが、崩御したので受けることにしたようだ。この頃はまだ、首皇子の立場が定まっていなかったためだろう。
霊亀元年(715)、元明天皇は娘の氷高内親王に譲位する。
孫の首皇子は15歳になっていたが、まだまだ虚弱だったようだ。氷高内親王は即位して元正天皇(44代)となり、母の元明太上天皇と共同して政務を行なった。
元正天皇は独身だったが、弟である文武天皇の「皇后」
このとき、氷高内親王は36歳で独身だった。中継ぎ天皇として独身を強いられていたのではない。
当時、内親王の結婚相手は男性皇族のみと定められていたので臣下とは結婚できず、適当な人がいなければ斎王になるか独身でいるのが一般的だった。
現実の氷高内親王は独身だが、当時の皇統上では既に亡くなった弟である文武天皇の皇后格とみなされていたようだ。このころ皇位継承は、親が子を、夫が妻を指名する形で行なわれている。この「親子」「夫婦」は実際の血縁と関係なく、皇統上の擬似的なものである。
首皇子の実母は藤原宮子だが、皇統上は実父の文武天皇の「皇后(実際は姉)」たる元正天皇が、「母」として「子(実際は甥)」の首皇子に皇位を継承させた。
首皇子は和銅7年(714)に立太子、神亀元年(724)聖武天皇(45代)として即位した。
聖武天皇に待望の皇子誕生! しかし……
霊亀2年(716)、首皇太子に藤原不比等の娘の安宿媛(光明子 母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいみちよ))が入内した。
それより先に県犬養唐の娘で、県犬養橘三千代の近親である広刀自(ひろとじ)が入内し、養老元年(717)に井上内親王を出産した。
光明子は養老2年(718)に阿倍内親王、神亀4年(727)に基皇子を出産した。
聖武天皇は生後1ヶ月の基皇子を立太子させた。異例の早さだが、聖武天皇としては即位してから4年間待ち望んでいた男子である。
しかし、基皇太子は神亀5年(728)に、1歳になる前に夭折してしまう。一方この年に、広刀自が 安積親王(あさかしんのう:聖武天皇の第2王子)を産んでいる。
「亡き皇太子の母」光明子立后
神亀6年・天平元年(729)光明子が皇后となった(光明皇后)。皇后となるのは内親王でなければならないという規定を破り、臣下の娘が立后したのだ。
聖武天皇の立后の宣命のなかに、「藤原夫人(光明子)は皇位継承とされていた皇太子の母であるから皇后に定める」という内容がある。
当時、皇太子の生母を皇后とする慣例があった。阿倍内親王の立太子を前提とした立后ではなく、亡き基皇太子の生母だからであり、まだ光明子所生の男性皇太子の誕生を期待していた。
史上唯一の女性皇太子誕生と、安積親王の死
天平10年(738)、阿倍内親王が21歳で立太子した。史上唯一の女性皇太子である。母の光明皇后は38歳で、もう皇子の誕生は望めなかった。
天平16年(744)、聖武天皇と難波宮に行幸した安積親王は「脚の病」で急死する。藤原氏の暗殺といわれるが、脚気は急速に悪化すると命を落とすこともあるという。聖武天皇の男系は断絶してしまった。
聖武太上天皇、遺詔にて孝謙天皇の次は道祖王を指名する
天平21年・天平勝宝元年(749)、聖武天皇は出家・退位する。
阿倍皇太子が即位して、孝謙天皇(46代)となる。この即位は「草壁皇子の皇統を絶やさないためにと光明皇太后が指示した」と、のちに孝謙天皇自身が詔で語っている。
天平勝宝8年(756)、聖武太上天皇が崩御した。
遺詔によって天武天皇の孫で新田部親王の子の道祖王(ふなどおう)が立太子した。道祖王が選ばれた理由はわからない。
遺詔の形をとったのは、女性天皇を否定する空気があまりにも強くて何度も謀反が画策され、最悪の場合、臣下が天皇を擁立しかねない状況だったからだ。遺詔であれば生前の詔よりも効力が強いと考えたのだろう。
じつは孝謙天皇の次は安積親王のつもりだった?
聖武天皇は孝謙天皇の次をどうするつもりだったのか。心情を吐露する資料がないので想像になるが、安積親王を次の天皇にするつもりだったのではないだろうか。
孝謙天皇は早いうちに譲位させ、「皇后」として弟の安積親王を補佐させようとしたのではないか。同じ独身の女性天皇だった元明天皇のように。ただ、そうすると聖武と孝謙2人の太上天皇がいる前例のない事態となる。
あるいは紫香楽宮に大仏を建立して、阿倍皇太子の即位は後回しにして、新しい都を安積親王が天皇として治める姿を描いていたのではないだろうか。しかしなかなか遷都は前に進まなかった。
そうこうしているうちに安積親王が急死してしまい、手詰まりになってしまったと考える。
では、なぜ光明子所生の皇子にこだわったのか。
同じ臣下でも藤原氏と県犬養氏とでは勢力が違いすぎることが大きい。また、光明子には世継ぎの男子を、広刀自には斎王となる女子を望んでいたという説がある。
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