藤原不比等(ふじわらの ふひと)の子として、奈良時代前期から中期にかけて活躍した藤原四兄弟。
その三男にあたる藤原宇合(ふじわらの うまかい)の血統を引き継いでいったのが、藤原式家(ふじわらしきけ)である。
長男の藤原武智麻呂(ふじわらの むちまろ)の邸宅に対し、次男の藤原房前(ふじわらの ふささき)の邸宅が北側にあったため、藤原房前の血統は藤原北家(ふじわらほっけ)、藤原武智麻呂の血統は藤原南家(ふじわらなんけ)を名乗っていた。
一方、三男の藤原宇合と四男の藤原麻呂(ふじわらの まろ)は、家の位置関係ではなく、生前についていた役職名から名前が来ている。
藤原宇合の血統である「式家」とは、宇合が式部省に就いていたためであり、藤原麻呂の「京家」は、左京太夫に就いていたためであった。
藤原四家をまとめると、以下である。
・藤原南家 - 藤原武智麻呂(むちまろ 680年~737年)
・藤原北家 - 藤原房前(ふささき 681年~737年)
・藤原式家 - 藤原宇合(うまかい 694年~737年)
・藤原京家 - 藤原麻呂(まろ 695年~737年)※737年に全員が亡くなっているのは天然痘のため
今回は、三男の藤原宇合の血統である「藤原式家」の子どもたちについて、詳しく見ていきたい。
反乱を起こした式家の長男、藤原広嗣
藤原宇合の長男・藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は、737年に父や叔父たちを天然痘で失った。
当時は天然痘が大流行しており、多くの太政官や官人が命を落とし、朝廷の体制を立て直すために人事が刷新された。
その際、広嗣も従六位上から三階級昇進し、従五位下となる。
式部少輔に就き、翌738年には大養徳守(やまとのかみ)も兼任するようになった。
しかし、伯母で聖武天皇の母でもある宮子と、僧・玄昉(げんぼう)との関係について諫言したことで、中央の役職を解かれ、九州地方の内政や外交・軍事を担う地方行政機関である大宰府へ、左遷されてしまったのである。
こうして左遷されてしまった広嗣だったが、当然この処遇に納得できず、大宰府から上奏文を朝廷に送った。
その上奏文は、右大臣・橘諸兄(たちばなもろえ)の側近であった吉備真備(きびのまきび)と玄昉について、「彼らが天地による災厄の原因であるため、追放すべき」といった内容だった。
しかし橘諸兄は、これを謀反と捉えた。
橘諸兄が進めた政策に対する、実質的な批判でもあったからだ。
これを受けて聖武天皇は、広嗣に「朝廷に出廷するように」と勅を出した。
しかし、広嗣はこの勅に従わず、740年、藤原宇合の四男である藤原綱手(つなで)と共に大宰府で挙兵し、反乱を起こしたのである。(※藤原広嗣の乱)
9月に始まった反乱であったが、わずか1ヶ月後の10月23日に広嗣は捕獲され、乱は鎮圧された。
そして翌11月、広嗣は弟の綱手とともに、肥前国松浦郡において処刑されたのである。
この藤原広嗣の乱により、藤原式家の親族や関係者たちの多くが処分を受けることとなった。
流罪から天皇の外祖父となった、藤原良継
藤原良継(よしつぐ)は、藤原宇合の次男である。
当初は宿奈麻呂(すくなまろ)という名であった。
740年、長男の広嗣が反乱を起こしたことで宿奈麻呂も連座し、官位剥奪のうえに伊豆に流罪となった。
しかし、2年後に赦免されて官位を回復し、746年には従五位下となった。
その後、宿奈麻呂は越前や相模、上野などの地方官を歴任し、民部少輔や右中弁といった中央の官職にも就いたが、大きな成果を上げられずにいた。
758年、孝謙上皇や淳仁天皇の時代になると、藤原南家の従兄弟である藤原仲麻呂(なかまろ)が太政官として強大な権力を握るようになった。
仲麻呂の3人の子どもたちも参議に昇進し、勢力を誇示していたが、宿奈麻呂は従五位上に留まり、約20年間で2階級しか昇進できていない状況であった。
この不満から、宿奈麻呂は数名と共謀し、藤原仲麻呂を暗殺する計画を立てた。
しかし763年、計画は漏洩し、関わった四名全員が捕えられてしまう。
宿奈麻呂は、罪を一身に引き受ける形で単独の犯行であると主張し、官位を剥奪され、さらに藤原朝臣の姓も奪われることとなった。
藤原仲麻呂の乱
しかし、その翌年に大きな転機が訪れる。
764年、藤原仲麻呂が反乱を起こしたのである。(※藤原仲麻呂の乱)
権力の絶頂を極めた仲麻呂が反乱を起こした理由は、孝謙上皇・僧の道鏡と、淳仁天皇・仲麻呂のグループ間に、修復しきれない亀裂が生まれたためである。
この亀裂の原因は、孝謙上皇と道鏡の関係が過度に親密になりすぎたことに対し、仲麻呂が淳仁天皇を通じて何度も諌めたためであった。
24年前、宮子と玄昉の関係を咎めた広嗣。
孝謙上皇と道鏡の関係を咎めた仲麻呂。
奇しくも、共に悪僧を咎めたことをきっかけに、乱を起こすに至っている。
宿奈麻呂は、この乱の討伐の勅命を受けて仲麻呂を討つと、766年には参議に任命され、再び朝廷内での地位を取り戻すことになる。
光仁天皇の即位に尽力
その4年後の770年、宿奈麻呂は称徳天皇の崩御を受けて、弟の藤原百川(ももかわ)や従兄弟の左大臣・藤原永手(ながて ※北家)と共に、白壁王(後の光仁天皇)を、新たな天皇として擁立するために尽力した。
参議から中納言に昇進し、光仁天皇の即位に伴い、宿奈麻呂は「良継」と改名する。
771年に北家の永手が亡くなると、光仁天皇の信頼を受けた良継は、藤原氏一族の中心的な存在となり、天皇の側近として政務に携わるため、内臣に任命された。
さらに良継は、777年には内大臣に昇進したが、同年9月に死去した。享年62。
その後、正一位太政大臣が追贈されることとなった。
なお、娘の藤原乙牟漏(おとむろ)は、光仁天皇の皇太子であった山部親王に入内し、774年に皇子を産んだ。
781年に山部親王が桓武天皇として即位し、783年に乙牟漏は正式に皇后に立てられた。
乙牟漏の子どもには、第51代平城天皇(へいぜいてんのう)と、第52代嵯峨天皇(さがてんのう)があり、藤原良継は死後も外祖父として歴史にその名を残すこととなったのである。
藤原良継を支えた八男、藤原百川
藤原宇合の八男である百川(ももかわ)も、光仁天皇や山部親王からの信頼の厚い、藤原式家の一人であった。
百川の娘・藤原旅子(たびこ)は桓武天皇の夫人となり、その子が第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)として即位した。
百川もまた天皇の外祖父として、死後に正一位太政大臣を追贈された。
終わりに
藤原式家は、奈良時代末期に大いに繁栄を遂げたが、後の藤原薬子の変などを経て衰退していった。
しかしその輝きは、奈良時代末期において最も顕著であったと言えるだろう。
参考 :
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部
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