奈良時代

【焼失と再生】戦火を超えた奈良のコスモス寺『般若寺』とその歴史

般若寺

画像:般若寺のコスモス wiki c Hamachidori

奈良県奈良市般若寺町に位置する般若寺

春の山吹、夏のアジサイ、夏から秋にかけてのコスモスといった花で彩られ、花の寺として知られている。
特に秋には、境内を埋め尽くすほどに咲き乱れるコスモスの美しさから「コスモス寺」として親しまれている。

今回は、飛鳥時代から現代に残る古刹の1つ、般若寺について解説する。

般若寺の創建は諸説あり

画像:木造文殊菩薩像 public domain

般若寺の創建時期や事情については、当時の歴史書に記載がないため、詳細は不明である。

ただし、般若寺に寺伝として残っている記録では、創建は第34代舒明天皇(じょめいてんのう)が天皇に即位した629年となっている。
開基は、高句麗から貢物として大和朝廷に献上された僧の慧灌(えかん)である。

慧灌は、日本における三輪宗の祖とされており、慧灌が般若寺が建つ奈良坂の地に、文殊菩薩を祀ったのが始まりとされている。

また、別の伝承では、654年に蘇我馬子(そがのうまこ)の孫である蘇我日向(そがのひむか)によって、第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)の病気平癒のために創建されたとも伝えられている。

しかし、蘇我日向の創建した般若寺には諸説あり、日向が大宰府の役人をしていたため、九州に建てられていた筑紫般若寺(廃寺)であった説、または飛鳥地方で般若寺とも呼ばれていた片岡寺(廃寺)であった説もある。

とはいえ、般若寺の境内からは奈良時代の瓦が出土しており、この地に奈良時代から寺院が存在していたことは確かである。

聖武天皇にまつわる伝承

画像:聖武天皇 public domain

聖武天皇にまつわる般若寺の由来についての伝承がある。

735年、聖武天皇は平城京の鬼門を守るため、飛鳥時代に建てられた奈良坂の寺院の伽藍を整備し、十三重の石塔を建立したとされる。

この際、聖武天皇自筆の大般若経600巻が安置され、それが寺の名前「般若寺」の由来となったという。

しかし、これもあくまで伝承であり、裏付けとなる史料は存在していない。

平安時代末の焼失と、鎌倉時代における再興

画像:平重衡 public domain

平安時代の般若寺は、学問寺として、千人の学僧を集め栄えていた。

しかし、平安時代末期の1180年、平清盛の五男である平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討により被害を受けることになる。

興福寺の衆徒が平家の軍勢を迎え撃つため、奈良坂と般若寺に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる障害物を設置したが、これを焼き払ったことで般若寺も延焼し、跡形もなく焼け落ちてしまったのである。結果として、般若寺は廃寺同然の状態に陥った。

その後、平家が都落ちし、源氏により鎌倉幕府が開かれると、般若寺の再興が進められるようになる。

僧の良恵(りょうえ)によって、廃墟の中に十三重石宝塔が1253年頃に再建され、真言律宗の宗祖である西大寺の叡尊(えいそん)によって七堂伽藍の再建も行われた。

さらに、1255年から本尊の文殊菩薩像の造立が始まり、12年後の1267年に完成し、開眼供養が行われた。
この文殊菩薩像は丈六像であり、信仰の中心となった。

1324年には第96代後醍醐天皇の護持僧であった文観房弘真(こうしん)の発願により、新たに木造文殊菩薩像が作成された。

この像は、興福寺の大仏師・康俊(こうしゅん)と、小仏師・康成(こうせい)によって彫られた。

室町時代以降の荒廃と復興

画像:松永久秀 public domain

しかし、室町時代の1490年、般若寺は火災により再び伽藍の一部を焼失してしまう。

その後、1567年には松永久秀、三好義継、三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らによる『東大寺大仏殿の戦い』が勃発し、奈良周辺の寺院が戦火に巻き込まれた。

この戦いの中で、陣地として使用できそうであった寺院は焼き払われ、般若寺も再び大きな被害を受けたのである。

江戸時代に入ると、1667年に本堂が再建され、続いて1694年には鐘楼も再建された。

しかし、明治時代には廃仏毀釈の影響で、般若寺は荒廃し、僧が住まない無住の寺となってしまった。

後に、真言律宗の総本山である西大寺によって管理され、第二次世界大戦後には再度、伽藍の修理や整備が行われ、今日の姿に至っている。

国宝となった鎌倉時代から残る「楼門」と重要文化財の「十三重石塔」

画像:般若寺経蔵と十三重石塔 wiki c Hamachidori

このように、般若寺は度重なる戦火によって、何度も焼失を繰り返した寺院である。

しかし、室町時代や戦国時代の兵火を耐え抜き、現存している建造物の一つである「楼門」は、国宝に指定されている。

この楼門は2階建ての木造建築で、鎌倉時代に叡尊(えいそん)によって再建されたものの一つである。
楼門としては日本最古の建造物であり、その美しい建築様式が際立っている。

木造であるがゆえに火災で失われる可能性もあったが、幾度もの戦火を逃れ、今日まで残ったのだ。

同じく鎌倉時代に建立された「十三重石塔」は、重要文化財に指定されており、般若寺のシンボルとなっている。
高さ12.6メートルに及ぶこの石塔は、日本の代表的な石塔の一つであり、本堂の南側に位置し、楼門と本堂の間に立って信仰の中心となっていた。

現在の般若寺は、コスモスが咲き乱れることで知られており、見事な景観を誇る寺院として親しまれている。

参考 :
・日本の古寺100選 宝島社
・訪ねてみたくなる関西の寺社 ぴあ株式会社
・深い感動 死ぬまで参拝したい日本の古寺100 株式会社メディアックス
・般若寺公式サイト
・奈良市観光協会サイト 般若寺
文 / 草の実堂編集部

 

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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