戦国の梟雄 松永久秀
松永久秀(まつながひさひで)は、大和の戦国武将として三好氏に仕え後に織田信長に臣従するも、一度ならず二度までも離反した人物です。
信長が徳川家康に久秀を紹介した際には、主家への反逆と謀殺、将軍の誅殺、東大寺の大仏殿の焼き討ちという、常人が成し得ない三つもの悪行を働いた稀代の悪人と言わしめたと伝えられています。
戦国時代を代表する梟雄(きょうゆう)と評される松永久秀の生涯を調べて見ました。
三好家の家宰へ
久秀の生年、出身地には諸説ありますが、永正5年(1508年)頃とみられています。いずれにせよ高い身分の出自ではなかったようです。
久秀は天文2年(1533年)頃から室町幕府の管領・細川氏の重臣であった三好長慶に祐筆として仕え、以後は合戦へも従軍したとされています。
久秀は天文18年(1549年)に主君・三好長慶が細川晴元や室町幕府13代将軍・足利義輝を京から追放したことに伴い、公家や寺社との仲介役を務めました。
その後、主君・長慶が畿内の事実上の覇者となると、その下で評価を得ていた久秀は、やがて三好家を取り仕切きる立場の家宰となりました。
また同時に大和一国を支配地として領し、ほぼ大名と同様の権勢を誇りました。
将軍殺害
久秀は永禄7年(1564年)7月に長慶が没した後は、三好三人衆の三好長逸、三好宗渭、岩成友通と共に長慶の甥であった三好義継を擁立して三好家を支えていました。
翌永禄8年(1565年)5月に久秀の息子・久通と主君・義継、三好三人衆が兵を率いて上洛すると、将軍・足利義輝を殺害しました。
通説では久秀が将軍殺しの実行者と語られることあるようですが、この時久秀は大和にあり実行には加わっていません。但し、指示や教唆の可能性もあり、首謀者であった可能性もあるようです。
やがて久秀は畿内の派遣を巡って三好三人衆と争うようになり、三好家内部での抗争が激化していきました。
東大寺大仏殿 焼き討ち
久秀は永禄10年(1567年)に主君・義継を味方につけると、同年4月に大阪の堺から信貴山城に戻りました。
これを受けて三好三人衆は大和へと兵を進めました。久秀はこの合戦において三好三人衆が陣を置いていた東大寺を攻め、この東大寺大仏殿の戦いに勝利を収めました。
このときに大仏殿が焼失したことから、久秀の悪行に数えられていますが、三好三人衆勢と久秀勢のどちらが火をかけたのかは定かではないようです。
翌永禄11年(1568年)6月に三好三人衆が久秀勢の信貴山城を陥落させたことで、久秀は窮地に陥り多聞山城へ籠城すると織田信長に協力を求めました。
信長との協調
永禄11年(1568年)9月に足利義昭を伴って信長が上洛した際、久秀はこれに協力して信長との協調関係を築きました。
久秀は信長に対して名物茶器である「九十九髪茄子」を贈ることで、室町幕府の有力者としての地位を得て、大和国の正式な支配権を得ました。
信長は三好三人衆を畿内から排除すると、三好勢が擁立していた足利義栄が急死したこもあり義昭を15代将軍に奉じ、ここに畿内の実権は信長が掌握することになりました。
信長への反逆
しかし元亀3年(1572年)久秀は旧主・三好義継や敵であった三好三人衆ら手を組むと信長に対して兵を挙げました。
この謀反には将軍・義昭の信長包囲に応えたという側面もありました。
一時は包囲網によって窮地に追い込まれた信長でしたが、翌元亀4年(1573年)4月に包囲網の要であった武田信玄が陣中で没し、武田勢が領国への撤退を始めたことで反撃にでました。
同年7月には義昭が信長に敗れて京を追放され、同年11月には三好義継も信長勢に敗れました。
更に同年12月に織田勢は久秀の多聞山城を包囲したため、勝ち目のないことを悟った久秀は信長に降伏しました。なんとか処断を免れた久秀は以後は信長に臣従することになりました。
再度の反逆
しかし久秀は、天正5年(1577年)に上杉謙信や毛利輝元、石山本願寺らの信長の対抗勢力と結んで再び信長に背きました。
居城の信貴山城に籠城した久秀に対して、信長は使者を使わして翻意を促しましたが久秀はこれを受け入れませんでした。
信長は子の信忠を総大将に据えた大軍で信貴山城を包囲させると、一説には久秀が所有していた名物茶器「平蜘蛛」を差し出せば助命すると申し出たとされています。
しかし久秀はこの申し出を断り、城の天守に火をかけて自刃したと伝えられています。
信長をして悪人と言わしめ、二度も反逆した梟雄の最期でした。
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