戦国時代は、戦いの最中でも敵軍に寝返りをする武将も多く見られたように、あの織田信長に気に入られながら反旗を翻した武将がいました。
それが 荒木村重 (あらきむらしげ)です。
ここでは、荒木村重が織田信長を裏切った経緯、生涯など、荒木村重について調べてみました。
荒木村重とは
荒木村重は天文4年(1535年)に、現在の大阪府池田市にあった摂津国池田城主の家臣、荒木信濃守義村の長男として生まれました。
池田城主である池田勝正の家臣として仕えながら池田長正の娘、だしを娶って一族衆となりながらも敵対していた三好三人衆(三好長安・三好宗渭・岩成友通)と手を結び、城主の池田勝正を高野山へ追放したのです。
池田家を乗っ取る形となった荒木村重はその勢いで戦績を残していき、織田信長との出会いを果たします。織田信長と出会うまでは敵対関係にあったのです。
しかし、織田信長に信頼され、重要な役割を担うほどになっていた荒木村重は突然、信長に反旗を翻し、何度も説得されながらも織田信長には会おうとしなかったのです。それが織田信長の逆鱗にふれて、荒木家を徹底的に滅ぼしていくことになりました。
それでも逃げとおし、晩年は茶人となり、出家して生涯を終えるのです。
織田信長との出会い
1568年9月、前述したように摂津国城主の池田勝正と共に織田信長軍との戦いが始まるのですが、池田勝正が降伏した戦で荒木村重が池田城主となり三好三人衆と共に信長軍と戦っていました。
その後、池田家に内紛が起こり、荒木村重が池田家の実権を握ります。当時の織田信長は本願寺相手に苦戦を強いられており、ここぞとばかりに摂津国の大半を手に入れるのです。
しかし、1573年に三好三人衆を見限り、信長軍と手を結ぶことになります。ここで上洛していた織田信長に出会ったと言われています。織田信長は、当時の摂津国への進出を目論んでおり、利害が一致したことで信長との出会いに繋がったのです。
信長は荒木村重を高く評価し、三好家から織田家へ移ることを許可したのです。
織田信長とのまんじゅうエピソード
荒木村重と織田信長の間には有名なまんじゅうエピソードがあります。
宴会の席で信長が突然、刀を取り出しまんじゅうに突き刺し、荒木村重の前に差し出したのです。すると村重は動揺することなく刀に突き刺さったままのまんじゅうにかじりついて食べてしまうのです。それだけでなく、刀についたまんじゅうの汚れを自分の袖で拭くことまでやってのけました。
この行動に信長は感心し、村重を茨木城主としたエピソードがあるのです。
この時の村重は38歳で、信長は村重を試すためにそのような行動に出たのではないかと語り継がれています。
これは陰徳太平記の中に記されているエピソードです。
また現在においても、伊丹市では、あっぱれ村重まんじゅうが販売されています。
おお、こんなものがあったか!
これで安全な村重ごっこができるぞ(笑)
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荒木村重の謀反
荒木村重は織田信長に認められ、信長に従うことで多くの戦で勝利を収め、37万石の領地を手に入れ、織田家の中でも貴重な存在になっていました。
1574年、伊丹城を落とし有岡城に改名しています。
1578年、本願寺顕如と親しかった理由で豊臣秀吉に推薦されて、石山城に和睦交渉に入りましたが失敗に終わります。それだけでなく、本願寺に兵糧を求められ本願寺に届けたのです。
その頃から村重が裏切るのではないかとの噂が信長の耳に入るようになりますが、信長は村重を信頼しており、満足できるようにするとの使者を村重に遣わせたのですが、少しも野心はないとの返事でした。
しかし、村重は信長に会おうとはせず、有岡城へ籠城を始めたのです。
謀反の理由
謀反の理由に挙げられる中でこれが決定的というのはないようですが、総合的に判断すればなるほどと思える理由があります。
荒木村重は、室町幕府最後の将軍・足利義昭、石山本願寺と親しい間柄でしたが、彼らは織田信長と敵対関係にあり、板挟み状態でした。
村重が謀反を起こせば、地理的に豊臣秀吉、明智光秀を孤立させることとなり足利義昭や本願寺にとってかなり有利となるため、両者に説得され織田信長に謀反したのではないかという説。
さらに、織田信長と敵対する石山本願寺には荒木村重の家臣の中川清秀が米の差し入れを行っており、織田信長に知られた場合の処罰を恐れていたのではないかとも言われています。
また、織田信長の側近との折り合いが悪く、一説には小便をひっかけられたとされています。現代で言えば悪質ないじめになります。
さらに、まんじゅうエピソードで紹介しましたが、これが織田信長に大恥をかかされたとの思いがあったのではないかとの説もあり、野心家の荒木村重はこれらを総合的に判断して織田信長に反旗を翻したのではないかと伝えられています。
戦においても指揮官や司令官には任命されず、活躍の場面が無くなることで将来の希望が望めなくなったことも大きな要因として挙げられます。
黒田官兵衛を幽閉
一方で織田信長は荒木村重が謀反したことに驚き、説得をするために明智光秀や豊臣秀吉ら家臣を有岡城に送りますがことごとく失敗に終わりました。
村重の母親を人質に安土城に謝罪に来れば許してもらえるとの説得に一度は傾くのですが、家臣の中川清秀が、信長は一度疑った者は許すはずがないと引き留めたのです。
その後も織田信長からの再三の使いの者を追い返していき、ついに黒田官兵衛が使者の役目を受けて有岡城に派遣されます。
黒田官兵衛は荒木村重と旧知の仲であり、豊臣秀吉の右腕とも言われるほどの人物です。
しかし荒木村重は黒田官兵衛を追い返すのではなく、捕らえて幽閉してしまいました。
10ヶ月もの間、幽閉された黒田官兵衛はやせ細り、以後、歩くことすらできなくなってしまうのです。
ここで織田信長は、黒田官兵衛までもが謀反したと勘違いし家臣に暗殺を命じます。そして荒木村重は徹底的に追い込まれていくこととなります。
有岡城落城
有岡城に籠城することを決めた荒木村重でしたが、織田信長との戦で自分の配下が次々と織田軍に寝返っていきます。
ここで孤立無援状態の荒木村重を抹殺するべく、織田信長は3万もの大軍を引き連れて有岡城に攻撃を仕掛けます。しかし、村重の抵抗も激しく武力だけでは攻めきないと悟った信長は兵糧攻めに切り替えます。
これにはさすがの荒木村重も耐えられず、約1年に及ぶ有岡城の籠城から数人の家臣を連れて逃げ出しました。ここで織田信長に降伏すれば良かったものの、最後まで戦うと降伏を拒否したために荒木村重と関わりのある家族や家臣、家臣の家族まで600人以上もの惨殺が行われました。
荒木村重は仲間の身を案じることをしなかったために、有岡城の悲劇が起きたのです。
織田信長の死後
長男の荒木村次が居る尼崎城に逃げた荒木村重ですが、織田軍に攻め続けられます。そこで花隈城に逃げますが、花隈城も織田軍により落城し、尾道に逃げました。
その2年後、1582年に織田信長は本能寺の変で死去し、荒木村重は尾道から堺へと移り住みます。そして茶道を極め、利休七哲に数えられるほどに成長します。
しかし豊臣秀吉への悪口を言ったことが知れて、秀吉からの処罰を恐れて逃げ出し出家して荒木道薫(あらきどうくん)と名乗りました。
その後1586年、52歳で死去。現在の兵庫県伊丹市の墨染寺に埋葬されています。
おわりに
領主の家臣に過ぎなかった荒木村重に訪れたターニングポイントは織田信長との出会いです。
織田信長に認められ家臣となり、摂津を治める大名となっていった荒木村重ですが、最後は逃げるが勝ちの生き方に変わったのも織田信長への謀反からです。これには中川清秀がおおいに加担しており、荒木村重だけの考えではなかったことも推測できます。
そのことで最低の武将とまで呼ばれることになりましたが、織田信長が荒木村重にこだわり続けたのには理由があり、戦国時代には欠かせない有能な人物だったことも確かでしょう。
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