豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と言えば、戦国時代きっての女好きとして知られ、若い頃、女漁りのひどさに主君・織田信長(おだ のぶなが)から「この禿げネズミめ!」などと叱られたエピソードは有名ですね。
そんな信長が本能寺で横死を遂げ、覇業を継いだ秀吉が天下人に駆け上がると、もう誰からも叱られないとばかり、女漁りも全国規模にエスカレート。
出自の卑しい(諸説あり)コンプレックスを埋めようとばかりに片っ端から良家の美女を掻き集めますが、今回はそんな被害者の一人・於安(おやす。安子姫、秀の前、妙安尼)のエピソードを紹介したいと思います。
叛服常なき九州肥前国の雄・波多鎮に嫁ぐ
於安は九州肥前国(現:長崎県および佐賀県)の戦国大名・龍造寺胤栄(りゅうぞうじ たねみつ)の娘として誕生(生年不詳)。胤栄の死後に家督を継いだ龍造寺隆信(たかのぶ)の養女となりました。
天正11年(1583年)、同国の松浦(まつら)水軍の領袖・波多鎮(はた しげし)が隆信に臣従の意を示したため、隆信は於安を嫁に出します。
「これからは、龍造寺の御家を盛り立てるべく、粉骨砕身ご奉公致しまする!」
隆信から「信」の一字を拝領した鎮は波多信時(のぶとき)と改名。篤く忠誠を誓いますが、翌天正12年(1584年)に隆信が有馬(ありま)氏と戦った沖田畷(おきたなわて)の合戦では、加勢せず静観するばかり。
「どうか、龍造寺にお力添え下さいまし……!」
「有馬は我が実家(※)だから、どちらにも義理を立てるためにはこうするよりなかろう……」
(※)鎮は松浦家から波多家へ養子に来ていました。
果たして隆信は討死、主を失った波多一族は薩摩国(現:鹿児島県西部)から勢力を伸ばしていた島津義久(しまづ よしひさ)に接近しますが、やがて天正15年(1587年)に秀吉が九州征伐にやって来ると、いち早くこれに支持を表明しました。
「我ら松浦党、こぞって関白(秀吉)殿下にお味方致しまする!」
これまでも(ここでは割愛していますが)、あっちへついたかと思えばこっちへ寝返り……叛服常なき夫・信時の態度について、於安がどう思ったかについて記録している史料は残っていませんが、これも戦国乱世の生存戦略と割り切るべきなのかも知れません。
破格の厚遇と引き換えに……?
しかし、それならそれで誠心誠意勤めればよいものを、いざ秀吉が九州まで兵を進めて来ても、信時は加勢を出しませんでした。
「何じゃ、味方するとは口先だけか!」
「まぁまぁ殿下、あれにもまだ利用価値がございます故……」
怒り心頭の秀吉をなだめたのは、龍造寺家の重臣・鍋島直茂(なべしま なおしげ)。
「……まぁ、そなたが言うなら」
直茂に一目おいていた秀吉は信時を許して所領を安堵したものの、以降、信時を直茂の与力≒格下として扱うようになります。秀吉には、信時と直茂の関係が「子分の不始末を尻拭いする親分」のように見えたのでしょう。
これが後に禍根の火種となるのですが、その後は秀吉と懇意になり、三河守の官職と豊臣の姓、そして秀吉と親しいことを示す?親(ちかし。以下、紛らわしいため波多親)の名を与えられるなど、国人クラスの者としては破格の厚遇を受けました。
……が、その好意が無償ではでないことは、方々お察しの通りです。「時に、そなたの御内儀は大層美しいと評判らしいが……」
(ギクリ)
破格の待遇と引き換えに、正室・於安を献上せよ。そんな秀吉のメッセージが分からない波多親でもありませんでしたが、どうしても美しい妻を差し出す気にはなれません。
「いや、あの、ははは……」
何とかはぐらかそうとする波多親に対して、美女を求める秀吉の執念は凄まじく、次第に波多親を疎むようになります。
そんな折、朝鮮出兵(文禄の役)が決行されたのでした。
流罪となった夫に寄り添う
波多親は2,000の水軍を率いて加藤清正(かとう きよまさ)率いる二番隊に編入されましたが、同じく二番隊に属する直茂の配下として扱われます。
「元は共に龍造寺家に仕えていた同僚の下風に立つなど、我慢がならぬ!鍋島殿が大名格であるなら、わしも同じくあるべきだ!」
かねがね「直茂の子分扱い」が気に入らなかった波多親は、あえて鍋島隊と別行動をとり、勝手に布陣するなど独立した指揮権を持つ大名のように振る舞いました。
「こらっ、決戦を前に仲間の和を乱すんじゃない!」
「やかましい!偉そうに上から目線でモノを申すな!」
あまりの反抗的な態度に閉口した直茂は、本国の秀吉へ「波多に卑怯未練の振る舞いあり」などと訴え出ます。
「おのれ三河(守。波多親)め……ちょっとかわいがってやれば調子に乗りおって!」
文禄2年(1593年)5月、秀吉の逆鱗に触れた波多親は急遽日本へ呼び戻され、改易(かいえき。領地没収)の上で常陸国筑波(現:茨城県つくば市)へ流罪とされてしまいました。
「さて、これで邪魔者はいなくなった……」
内心しめしめと思っていた秀吉は「未来のない夫を捨てて、我が元へ来ぬか?」などと於安を口説いたものの、於安はこれを拒絶。
「夫が苦境の時こそ、その傍らに寄り添うのが妻の務めにございますれば……」
実際はただ秀吉が嫌だっただけかも知れませんが、ともあれ袖にされた秀吉は逆ギレ。
「ならばどこまでも寄り添えるよう、そなたも常陸へ流してくれるわ!」
という訳で夫の後を追った於安は、秀吉を袖にしたことから「秀の前(ひでのまえ)」と呼ばれるようになったのだとか。
配流の翌年(文禄3・1594年)に波多親が現地で亡くなると、出家して妙安尼(みょうあんに)と改名、夫の菩提を弔いながら余生を送ったということです。
終わりに
以上、於安の生涯を駆け足でたどってきました。好色な秀吉に目をつけられたのが運の尽き?ではあったものの、それでも魔手にかかることなく夫婦添い遂げることが出来たのは、せめてもの幸せだったと言うべきでしょうか。
※参考文献:
外山幹夫『肥前 有馬一族』新人物往来社、1997年8月
熊谷充晃『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』彩図社、2020年11月
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