石見銀山とは
石見(いわみ)銀山は島根県太田市にあり、戦国時代から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山である。
最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとされ、その大部分を占めたのが石見銀山だとされている。
石見銀山は別名「大森銀山」とも呼ばれ、江戸時代初期には「左摩銀山」とも呼ばれていた。
明治元年に民間の田中義太郎が経営権を所得したが、明治5年の浜田地震の被害を受けてしばらく休山し、明治19年から藤田組が再開発を続けたが銅の価格暴落や坑内の環境悪化などで大正12年に再び休山、戦争時は銅の再産出を試みたが、水害によって失敗し昭和18年に完全閉山となった。
平成19年(2007年)に石見銀山は世界遺産として登録され、観光の超目玉となっている。
銀山争奪戦
石見銀山の発見については正式な記録はないが、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が銀を発見したという伝説が『石見銀山旧記』に記されている。
その後、この地を支配していた大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、博多の大商人・神谷家が開発し領主・大内義興が支援し銀を掘り出したとされている。
大内義興の死後、その息子・義隆が九州経営に気を取られている間に地方領主の小笠原長隆が銀山を奪ったが、その3年後に再び大内氏が奪還した。
日本有数の銀の産出量を誇ったことから、天文6年(1537年)に出雲の尼子経久が石見に侵攻し銀山を奪う。
2年後には再び大内氏が奪還し、その2年後には尼子氏が再び銀山を占領するという、大内氏と尼子氏による壮絶な石見銀山争奪の戦いが続いた。
大内義隆の死後は、毛利元就が台頭し尼子晴久との間で「忍原崩れ」「降露坂の戦い」といった争奪戦が繰り広げられたが、いずれも尼子氏の勝利に終わった。
だが、永禄4年(1561年)に尼子晴久が急死すると、跡を継いだ尼子義久は毛利元就と「石見不干渉」という和議を結んだ。
最終的には毛利氏が石見銀山を完全に手中に収め、近くの山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が入ったが、朝廷の御料所として毛利家は献呈してしまう。
しかし、実質的には石見銀山(大森銀山)は毛利氏が管理し、天正9年(1581年)には年間に3万3,072貫の銀の産出があり、織田信長との戦いに充てたという。
その後、毛利輝元が豊臣秀吉に臣従することになると、銀山は秀吉と毛利氏の共同管理となり、秀吉の天下統一事業や朝鮮出兵の軍資金として充てられた。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長5年(1600年)に石見銀山を天領とし、翌年には銀山奉行を置き江戸幕府の貴重な財源として重宝された。
だが、石見銀山も元禄期になると次第に産出量が減り、江戸時代末期にはほとんど産出出来なくなってしまう。
幕末の慶応2年(1866年)第二次長州戦争において幕府は長州軍を食い止めることが出来ず、石見銀山は長州藩に支配されることになり幕府の銀山支配は終焉した。
明治新政府の廃藩置県において長州藩から大森県が銀山を支配することになり、民間の手に委ねられることになった。
昭和になって銅の再産出を試みるも、昭和18年の水害で坑道が水没し、完全閉山となったのである。
最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したと推定されている。石見銀山はそのかなりの部分を占めていたのである。
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