戦国時代

伊達成実 ~突然伊達家を出奔して戻ってきた【伊達家最強武将の謎】

独眼竜政宗の腹心・伊達成実とは?

伊達成実

画像 : 伊達成実像 public domain

独眼竜政宗を支えた双翼とされる武将が、片倉小十郎伊達成実(だてしげざね)である。

小十郎が「政宗の懐刀」なら、成実は「伊達の武力シンボル」と云えるだろう。
政宗が経験した主戦場では必ず、成実が活躍する姿があった。

では、伊達成実とはいかなる人物なのだろうか?

成実の父は大森城主で、政宗の祖父・晴宗の異母弟にあたる実元(さねもと)である。そして母は晴宗の二女の鏡清院である。
なんと両親は「叔父と姪の婚姻」であった。

現代人には驚く関係であるが、戦国時代では珍しくなく、いとこ結婚も当たり前にされていた。

そして息子の成実は、近親婚による遺伝的弊害どころか、数多の戦さを駆け巡る体力・気力充実の勇猛果敢な闘将に成長する。

政宗の元服時には宝刀持ち役を務め、政宗の父・輝宗が彼の烏帽子親を行ったことから、近習としても大きな期待をかけられていたようである。

人取橋の戦い

成実の名を全国版に押し上げたのが、天正13 年(1585 年)『人取橋の戦い : ひととりばしのたたかい』である。

佐竹義重率いる南東北連合軍3万に対して、伊達軍は7千と圧倒的不利であった。
しかも味方の前田沢兵部の寝返りもあり、四面楚歌状態に陥ったのである。

成実軍も孤立し、味方が次々連合軍に押され逃げていく状況の中で、主君・政宗も追い詰められて負傷し、絶体絶命のピンチとなった。
成実は政宗を逃げさせようと奮闘し、部下の制止もふりきり敵陣へ切り込んでいった。

その猛将ぶりは、敵も味方も感嘆するほどであったという。

しかし多勢に無勢、もはやこれまでかと諦めかけた時に、何故か佐竹軍が退き始めていった。
佐竹の領国内で不穏な動きがあり、佐竹軍は急遽撤退することとなったのである。伊達軍にとってはまさに奇跡であった。

結果、成実は主君が戦場を逃れる時を稼いだのである。

この時、政宗19歳、成実18歳。

二人は10代の若さで、生死を分ける経験を持ったのだ。

なぜ、成実は出奔したのか?

伊達成実

画像 : 宮城県亘理町の大雄寺【伊達成実霊屋】伊達成実木造彩色甲冑像

『人取橋の戦い』で、命をかけて主君を逃がし忠誠を貫いた伊達成実。

その後、南東北最大決戦『摺上原の戦い』でも敵の側面を突き、戦局を変える働きをしている。

常に主君と共に戦場に立った成実だったが、突然「高野山へ出奔」してしまったのである。※相模国糟谷へ出奔したという説もある。

出奔の時期は諸説あるが、文禄4年(1595年)〜慶長3年(1598年)の間とされている。時代は既に豊臣秀吉の天下であった。

なぜ、彼は出奔したのだろうか?
理由が3つ考えられる。

1.過去の武功が評価されず、政宗の叔父の留守政景や石川照光の俸禄より少なかった
2.大名諸公からヘットハンティングの誘いがあった
3.主君名代・屋代勘解由(やしろかげゆ ※屋代景頼)が立場を利用し、政宗との不和を画策した

1 に挙げた俸禄の不満は『伊達治家記録』にも載っている。
しかし、自身のためだけに不満を言う人物ではない。
これが真実だった場合は、生死を賭け共に戦い抜いた家来達に報いてやりたい想いがあったに違いない。

2 天下は治まったとは云え、諸公たちは先がわからぬ世で人材を求めており、成実は人気だったことが推測できる。
実際に後に上杉景勝は5万石で誘っているし、徳川家康も旗本に加えたい思惑があった。
また、天下人たる豊臣秀吉からも気に入られ、伏見に屋敷を賜っている。
家来の評価が高まり天下人や有力大名から優遇されれば、当然政宗は面白くない。

3 そこに屋代勘解由が付け込み、二人の間は溝が広がった。
屋代勘解由には前科がある。
秀吉のお気に入りになった茂庭綱元に関して政宗に諫言し、伊達家奉行職を解任させたのである。
成実は茂庭綱元の解任劇と隠居を見て、主君との決裂を避けるために逃げたという可能性もある。

また別の説として、豊臣秀次切腹騒動に政宗関与が疑われ、政宗の連座を避けるために成実が疑いを被って高野山へ身を隠したという説や、『蒲生軍記』では政宗の秘密工作として出奔したという話もある。

成実の出奔は政宗に何を決意させたか?

伊達成実

画像 : 伊達成実・居城角田城跡

成実の出奔の報せに政宗は愕然とし、大変なショックを受けたことが想像できる。

実際に政宗はすぐに説得の使者を送っている。
成実とも懇意の老臣や腹心などが使者に立ったが、動かすことは出来なかった。

味方であれば頼もしい武人であるが、敵となればこんなに恐ろしい者はいない。
猜疑心も強かった政宗は、成実が敵となった場合どうなるのかも容易に想像できたであろう。

政宗は、成実の居城だった角田城の接収を決断する。
成実にとっては帰る場所を失うことであったが、家中に示しをつける必要があった。

政宗の命を受けた屋代勘解由が角田城取り上げに向かった。
しかし、成実の家臣である留守役家老・羽田実景ら30人以上が刃向かい、全員討ち死してしまったのである。

いよいよ、成実の心中は頑なにならざるを得ない状況となった。

当時、政宗は外様と譜代家臣を平等に扱い、家臣団再編成の課題に着手していた。
外様や新参家臣が不安にならないように伊達家臣団に迎え、領内の安定を図る。
この改革を進めなければ、領内は治まらず、生き残れない。

その中で起きた、腹心の出奔であった。

すれ違った主従を取り持った人物は?

成実の不在は、家臣団に波紋を広げた。
成実は男気に溢れ、公私の区別のハッキリした「もののふ」であった。
当然、彼の気性を慕い、憧れる者が多かった。

しかも、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が病に倒れ、同年8月に没していた。
そして徳川家康が天下取りの意思を露わにし始め、戦の気配が濃くなっていた。
そんな世情を考えると、成実は伊達家中には無くてはならぬ存在だった。

その時、動いたのがもう一人の双翼『片倉小十郎』だった。

伊達成実

画像 : 片倉小十郎の肖像

片倉小十郎は、政宗の叔父である『留守政景』と『石川照光』の協力を仰ぎ、成実帰参を画策したのである。

画像 :  留守政景 wiki c

小十郎は成実と数十年来の付き合いがあり、気性も心得ており、息子の烏帽子親を頼む程、親しい間柄であった。

政宗の叔父にあたる政景と照光は、成実出奔の原因となった可能性のある人物だが、彼ら自身は成実を高く評価していた。

家格上位の重臣自らが帰参説得を務める事で、本気度を示したのである。
こうして帰参のお膳立てが進む中、一方では政宗が回状を回し、成実のスカウトを阻止した。

そして慶長5年(1600年)遂に、成実が伊達家に帰参したのである。

帰参後は石川昭光の軍に属し、対上杉景勝軍との「白石城攻め」では見事勝利している。

おわりに

伊達成実の出奔には、プライベートな寂しさも見え隠れする。
唯一の子供であった小僧丸は早世していた。

出奔する前、正室・亘理夫人を亡くし、子どもがいた記録がない。

この時、駆け回る彼の子どもが2,3 人いたなら、状況は変わっていたかもしれない。

参考図書
伊達政宗のすべて」 新人物往来社 編者 高橋富雄
伊達政宗と片倉小十郎」 新人物往来社 著者 飯田勝彦
伊達政宗とその武将たち」新人物往来社 著者 飯田勝彦
伊達政宗-「機」をはかる抜群の演出力 世界文化社 発行人 鈴木 勲

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 8月 23日 11:19am

    >二大双翼
    双翼が二つなら四人いなければならないと思います
    そもそもこの場合は双翼ではなく双璧ではないでしょうか

    「伊達家をバックレて戻ってきた」というタイトルも分かりにくかったです
    「伊達家を出奔した後、帰参した」など同じ字数でも概要を分かりやすくする術はあると思います

    0
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    • アバター
      • 草の実堂編集部
      • 2022年 8月 23日 11:55am

      二大は確かに間違えですね。修正いたしました。
      タイトルは歴史に馴染みのない方だと「出奔」はわかりにくいのでキャッチーな感じにしました。本文中では表現は「出奔」となっているのでご理解くださいませ。

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