巨大山城「桑折西山城」とは
「戦国の常識を変えた」と熱い注目を集める巨大な山城がある。
それは現在の福島県桑折町に跡地がある「桑折西山城(こおりにしやまじょう)」だ。
近年の発掘調査によって、この山城が「数十年後の築城法を先取りした革新的な山城」だったことが幾つか発見された。
織田信長が日本で初めて行ったとされる建築方法が、なんとその30年も前に奥羽の地で行われていたのである。
この巨大山城を築城した戦国武将が伊達稙宗(だてたねむね)である。稙宗は、あの有名な独眼竜・伊達政宗の曾祖父にあたる人物である。
今回は、信長を30年も先取りした男・伊達稙宗と巨大山城について、前編と後編にわたって解説する。
伊達稙宗の出自
伊達稙宗は、長享2年(1488年)伊達家第13代当主の伊達尚宗(だてひさむね)の嫡男として生まれた。
初名は「高宗(たかむね)」、後に「稙宗」に改名、ここでは一般的に知られる「稙宗」と記させていただく。
永正11年(1514年)父・尚宗の死去により家督を相続して第14代の伊達家当主となる。
同年、「長谷堂城の戦い」で羽州探題・最上義定を破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に最上氏を支配下に置いた。
永正14年(1517年)室町幕府第10代将軍・足利義植の上洛祝賀に多額の進物を贈って「稙」の一字拝領を賜り「稙宗」に改め、左京大夫に任官された。
左京大夫は、元来奥州探題・大崎氏が世襲してきた官位であったが、この官位を稙宗が獲得したことで、大崎氏に代わって名実共に伊達氏が取って代わったことを周囲に認めさせた。
稙宗は中央との結びつきで家格を上げ、婚姻外交を織り交ぜて葛西氏や岩城氏などと争い、伊達氏の勢力の急激な拡大に成功した武将である。
元々、奥羽は武将間で婚姻関係が多かった土地柄であり、複雑な状況と小競り合いが多かったが、稙宗はその奥羽で確固たる地位(陸奥国守護)を得た。
桑折西山城の全貌
桑折西山城は、現在のJR桑折駅西側の丘陵一帯にあった巨大な山城で、天文元年(1532年)に稙宗が居城を現在の福島県伊達市にあった梁川城から桑折西山城に移したことが始まりである。
桑折西山城が巨大な山城に改築されたのもこの時とされ、稙宗はこの城を居城にする前に陸奥国守護に任じられている。
実は地元の桑折町が、2008年からこの山城の本格的な発掘調査を実施している。
桑折町公式サイト 史跡西山城跡整備状況
当時としてはとても革新的な山城で、後に織田信長が最初に行ったとされる築城法を、稙宗が30年も前にこの城で行っていたことが明らかになったのである。
桑折西山城は標高190mの山頂部、東西1km・南北500mを整備し、その間に本丸・二の丸・中館・西館という大きな4つの平地の区画・曲輪(くるわ)を備えた巨大山城であった。
本丸・二の丸・中館・西館の4つは、1つずつの曲輪があり、しかもそれぞれが巨大な山城になっていたのである。
現在では桑折町によって整備され、戦国時代の姿(土地区画や防御跡)がはっきりと残っており、防御のために優れた仕掛けを施した跡など、その全貌が良く分かるようになっている。
小高い丘陵部を山城に向かって登って行くと、最初にあるのが大手門である。
大手門の右側には土塁があり、左側には切岸が整備され、その間に大手門があった。
そのため、門の前はとても狭くなっており、敵が進軍して来ても必ず門の前の狭い所に一旦止められることで、三方から攻撃できるようにつくられていた。
土塁とは、土を盛土した平均の高さが2~3mほどのもので、平地の場合は堀を掘った時に出た土を利用するのが一般的である。
切岸(きりぎし)とは、盛土ではなく山の斜面を切土して勾配をつけたもので、土塁も切岸も角度をつけているために重たい鎧兜を着た兵士たちが容易に登れなくなっている。
しかもその上には敵を攻撃できる平坦な場所が作ってあり、そこから兵士が鉄砲や槍・弓矢・投石などで攻撃ができた。つまり「攻撃と防御を兼ね備えたもの」である。
土塁や切岸は城があるところでは昔から普通にあるものだが、桑折西山城ではもし敵が大手門を突破すると、そこから本丸と二の丸がある場所の近くに出る形となっており、その間には本丸と二の丸を分ける大きな空堀が掘られていた。
この空堀で掘った時の土が、本丸側を守るための土塁に活用されている。
土塁や空堀は戦国時代以前からあったものだが、ここの空堀の底には田んぼの畝のような道である「畝堀(うねぼり)」が掘られていた。
なんと、二重の空堀になっているのである。
畝堀は、関東の雄・北条氏が造った山中城が有名で難攻不落とされたが、北条氏が造ったのは戦国時代の末期で、稙宗はそれよりも50年も前に造っていたことになる。
畝堀に入ると空堀よりも狭く囲まれているために敵は動くことができず、上から攻撃されると敵は防御が困難でほぼ全滅状態になってしまう。
また、空堀の土塁も二の丸よりも本丸側が高く盛土されており、しかも勾配も急であった。
それは、本丸側に行かせないための工夫であった。
城の中心部である本丸は、福島盆地が一望できる場所になっていた。
そこに平坦な広い区画の曲輪が整備され、稙宗が住んでいたと思われる建物の柱が均等に並んでいる。
しかも、その形はほぼ正方形で、そこに柱穴が均一に並んでいた。
この本丸は城主の住いの他、政治と生活の場所でもあったのである。
この当時の山城は、領主(城主)の住まいは山の下の平坦な館に造られるのが常識であり、戦の時は山城に登って戦の指揮を執ることが一般的だった。
しかし桑折西山城の本丸は稙宗が実際に生活し、政治的なことも行い、軍事も行う、3つの機能を兼ね備えた画期的な本丸であったのだ。
この本丸は当時の戦国期の拠点城郭にはない、とても変わった新しい城であったことが分かる。
また、桑折西山城が築城された場所は奥羽街道と羽州街道の分岐点にあたり、交通の要所であったため、本丸からは敵の動きがすぐに分かるのである。
家臣たちが暮らしていた中館と西館も、山を削って平地にした曲輪になっていた。
そしてこの間にも大きな空堀が掘られていた。
しかも、こちらの空堀の方が本丸と二の丸の空堀よりも大きくて深く、一番深い所は約5mで強固な守りとなっていたのである。
稙宗はこの強力な4つの曲輪に、伊達一族や有力家臣を住まわせていた。
元々それぞれの領地に館を構えて住んでいた臣下の者たちを自らの城に集めることで、権力を一元化させる狙いがあったとされている。
しかも、城の城下にはこの山城を包囲(防御)するように有力な家臣たちの館が四方八方に造られていた。
こうした城下に家臣たちを集める城づくりは、永禄6年(1563年)に小牧山城を居城とした織田信長が、日本で最初に行ったと今までは考えられていた。
しかし稙宗は信長よりも30年も前に、同じような城づくりを行っていたことが発掘調査で明らかになったのである。
それまでの山城は自然の要害を利用していたのだが、この山城は人偽的に造られ、戦国時代の最先端を誇っていたのである。
後編では、伊達稙宗のその後について解説する。
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