戦国時代

立身出世したければ…徳川譜代の偏屈者・大久保彦左衛門かく語りき

立身出世したければ、忠義奉公に励むべし……ごく当たり前に聞こえます。しかしいくら懸命に忠義を尽くし、奉公しても、必ずしも正当に評価されないことも少なくありません。

そんな社会の不条理は今も昔も変わらなかったようで、戦国時代の武将たちにも不満を抱える者がいました。

大久保彦左衛門忠教。Wikipediaより。

今回は徳川家三代(家康・秀忠・家光)に仕えた大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざゑもん)こと大久保忠教(ただたか)を紹介。

彼の愚痴……もとい教訓は、現代に生きる私たちも共感するところ大かと思います。

出世する者の条件・5ヶ条

もし知行(所領≒給与。ただし相応の責任は伴う)を多くもらい、立身出世したいなら、次の5つを実践することだ。

一、主君を裏切って謀叛を起こす者ほど高く評価され、子孫も繁栄できよう。
一、なりふり構わず卑怯な振る舞いに及び、人に笑われるのがよかろう。
一、礼儀作法をわきまえ、上役のご機嫌とりに努めよ。
一、武芸よりもそろばん勘定を学び、代官の風格を身につけよ。
一、どこの馬の骨か身元が分からぬほど、遠く他家に仕えること。

しかし、目先の欲に目が眩んでこのような心を持ってはならぬ。

※大久保彦左衛門『三河物語』より意訳。

※代官の風格とは、政治能力に長けていながら領主(トップ)ではない幹部クラスの適性。自主独立の気概はなく、主君から見て「有能だけど、自分にとって代わる危険はない」安心感を持たせることで出世しやすい。

これはかつて三河一向一揆で主君を裏切り、各地を放浪した挙げ句に徳川家へ舞い戻り、政務能力と処世術で成り上がった本多正信(ほんだ まさのぶ)のような者たちを指しています。

一向一揆との激闘。月岡芳年筆

そのほか武田の旧臣をはじめ、家康が晩年に権力を握ってからすり寄って来た有象無象ばかりが、家康の周囲をとりまく有り様。

ちなみに追放された正信は彦左衛門の兄・大久保忠世(ただよ。七郎右衛門)に保護され、そのとりなしで徳川家臣に復帰できました。

にもかかわらず、忠世の亡き後その嫡男・大久保忠隣(ただちか。彦左衛門の甥だが主君に当たる)を讒訴により失脚・改易せしめます。

恩を仇で返すとはまさにこのこと……彦左衛門もこの事件に連座して改易(のち徳川家直参として半分の1,000石で再仕官)。これまで大久保一族は何代にもわたって忠義を尽くし、誰一人裏切ることなく奉公に励んできた報いがこれか!

正信も正信ですが、そんな根も葉もない讒訴を鵜呑みにする家康も家康です。おのれ……おのれ……しかし彦左衛門は、それでも歯を食いしばって耐えました。

出世できない者の条件・5ヶ条

大久保藤の家紋。

子孫たちよ。以下のような者は出世できぬから、よくよく心に留め置くがよい。

一、主君に二心を抱かず、忠義を貫く者。
一、身命を惜しまず武辺に励む者。
一、礼儀作法を知らず、世渡りの下手な者。
一、そろばん勘定が出来ず、時流に乗れぬ者。
一、譜代久しき者(同家代々の主君に仕えた者)。

しかしどれほど不遇であろうと、たとえ飢え死にするようなことがあろうと、決して主君への忠義を忘れてはならぬ。

※大久保彦左衛門『三河物語』より意訳。

「こいつは絶対に裏切らない」と思われれば、扱いが悪くなるのは世の習い。まして天下統一がなり、戦う敵がいなくなれば武辺者など不要になるのも当然です。

礼儀そろばん社交術……どれも持ち合わせていない彦左衛門たちが、肩身の狭い思いをしていたことは想像に難くありません。

それでも譜代の(吹けば飛ぶような)誇りを抱え、ひたすら奉公に励み続けた彦左衛門。その知行は、終生2,000石を超えることはありませんでした。

2度にわたる加増を辞退

こう聞いた方の中には「でもそれって、出世できなかった人の負け惜しみでしょ?もし貰えたら貰ったんでしょ?」と思う方がいるかも知れません。しかし、彦左衛門にも加増のチャンスはあったのです。

一度目は兄・大久保忠佐(ただすけ。治右衛門)が沼津2万石を譲ろうとした時のこと。

彦左衛門の兄・大久保忠佐。Wikipediaより。

「わしには跡継ぎが(死んでしまって)おらぬゆえ、このまま死んでは所領を没収されてしまう(これを無嗣断絶と言います)。今のうちにそなたが相続してくれぬか」

しかし、彦左衛門は「それがしの武功ならざるゆえ、所領を受け継ぐのは筋が違う」とこれを辞退。結局、忠佐の死(慶長18・1613年9月27日)によって沼津2万石は召し上げられてしまいました。

もったいない……と言うなかれ。知行はあくまで主君からお預かりしているものであり、功なき者が固執するのは忠義に反します。

二度目の機会は最晩年。江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(いえみつ。家康の孫)が永年の功労に報いようと5,000石に加増しようと打診がありました。

最期くらいは厚遇してやろう、との計らいに対して、彦左衛門は「若い内ならともかく、もうじき死ぬのに今さら不要」と辞退します。

その3,000石は他の(特に冷遇されている)者たちにやって下さい……戦国乱世も遠く過ぎ去ろうとしていた寛永16年(1639年)2月29日、彦左衛門は80歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

終わりに

以上、大久保忠教のエピソードを紹介してきました。

老いてなお偏屈だった大久保彦左衛門。月岡芳年筆

桶狭間の年(永禄3・1560年)に生まれ、17歳で初陣を果たして以来、兄たちと共に数々の戦さ場を駆け抜けた彦左衛門。

泰平の世に武辺者は要らぬ……古来「狡兎尽きて走狗烹らる(意:兎がいなくなれば、猟犬は用済みなので煮て食われる≒戦国乱世が終われば、武士は不要になる)」と言うように、確かに無用者だったのかも知れません。

しかし、その泰平の世を作り上げたのは、身命を惜しまず戦い続けた武辺者たちではなかったか。犬のように不器用だけど忠実な、三河武士たちではなかったか。

平和は誰かに与えられるものではなく、たゆまぬ努力によって守られるもの……治にあって乱を忘れず、大久保彦左衛門の精神は、現代を生きる私たちに大切なことを教えてくれます。

余談ながら、好評放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場して欲しいですね(家康に面と向かって口論する名場面など、楽しみにしています)。

※参考文献:

  • 笠谷和比古 監修『武士道 サムライ精神の言葉』青春出版社、2008年8月
  • 菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2004年10月
角田晶生(つのだ あきお)

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